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今年最後の大掃除。

年末になると、家庭でも、会社でも一斉に大掃除が始まる。 普段の掃除では、中々しない所まで、キレイにしていく。 僕も職場で、仕事納め、ギリギリまで、大掃除をやってきた。 基本的に掃除は好きなので、隅々までキレイにしてきたつもりだ。 物理的な掃除は、一応終え、気持ちよく新年を迎えることができそうだ。 しかし、今年一年の気持ちの大掃除が、まだ終わっていない。 感謝の気持ちを伝えるべき相手に伝え忘れていないか? 不平・不満を残したまま、新年に引きずらないか? 気持ちも大掃除をして、心身ともにスッキリして、新しい年を迎える準備を早くしないといけない。 不平・不満は、サンドバッグでも叩いて、忘れ、感謝の気持ちは、家族に素直に 「ありがとう」 と言うことにした。 もう少しで、僕の大掃除も全て終わりそうだ。 2018年を気持ちよく迎え、今年よりも、さらに良い年にするぞ。絶対に。

個性って、なんだろう?

ここ最近、個性を重んじる傾向が、変な方向に向かって、進んでいるような気がする。 個性的なことは、決して悪いことではない。僕も、「個性的だ」と、よく言われる。 人には、それぞれの感性や感情があり、歩んできた道のりがある。 そんな人それぞれの個性が集まることで、新しいものが生まれてくるんだと思う。 個性がない、画一的な人の集まりでは、1+1=2にしかならないけれど、個性が集まることで、3にも4にもなってくる。 個性には、そんな力が秘められている。 しかし、最近は、個性の解釈を捻じ曲げ、変な方向へ導こうとする人たちが多く見受けられる。 代表的なのが、子供へ個性を強要する親だと思う。 髪が長い男の子など、一目で性別が判断できない子が増えてきている。 百歩譲って、子供が自分で選んでいるなら、構わない。 しかし、殆どが、親の趣味(希望?)による、強制でしかない。 そんな親に限って、「今は、個性が大事(大切)」や「うちの子は、みんなと違う」など、勘違いな自論を語る。 僕は、そんな人(親)を見ると、「自分の個性のために、子供を利用しているだけで、子供はアクセサリーやおもちゃじゃない」と、つくづく思う。 (僕の意見も、勘違いな自論かもしれないけれど。) しかし、小さな頃から慣ら(洗脳)されてしまうと、本人も気付いた時には、自分の体の性と、気持ちの性との違いに悩んでしまうんじゃないか? 『性同一性障害』の中には、親のエゴに犠牲となった子供たちも少なくないと思う。 これは、『性同一性障害』への偏見ではない。もし、自分の子供が、体と心の性が違っても自分の子供であることは変わらないし、堂々として欲しいと思う。 僕は、個性を強制することが大間違いだと思う。 これは、家庭でも学校でも会社でも同じだ。 強烈な個性の人もいれば、あまり個性が目立たない人もいる。 でも、人それぞれ経験してきた過去は違う。同じ経験をした人は、誰一人といない。 感じ方、行動、表情など人それぞれ違うはず。 だから、誰にでも個性があり、個性的だ。それを必要以上に求めることは間違いだし、必要以上に個性を主張する必要もない。 ただ、自分が思ったことや感じたことを素直に表現するだけで、充分、個性を発揮することができる。 求めらて出す個性は、本当の個性じゃない

本当に変わるためには、何をする?

もし、今の自分を変え、脱皮したいと考えているなら、先ず、するべきことは 『自分を褒める』 ことだと思う。 自分を変えたいと思う時は、大抵、上手くいってない時だと思うけど、そこで、クヨクヨしたり、どうしたら変われるのかを考えても仕方がない。 どんなことでもいい。「上手くいかなくても、頑張れる自分は凄い。」や「イジメに負けずに耐えている自分は偉い。」など、何でもいいから、先ずは、今の自分を褒めよう。 但し、自分で「頑張っているから、少し休憩を。」など、甘やかすのは別問題だ。 第三者の立場で、今の自分の言動を否定せず、認め褒めよう。 (本当は、他人が褒めてくれるのが一番の特効薬かもしてないけれど。) 人は、誰でも褒められると嬉しくなる。 嬉しくなると、さらに 『褒められたい』 欲求が生まれ、今までより、 『もっと褒められるためには、どうしらいいのか?』 自然と考える。 子供を褒めて育てるのと同じ要領だ。 自分を貶すことで奮起できる性格の人もいるかもしれないが、そんなに強い人ばかりではない。 (もし、自分が貶されることで奮起できる人であれば、このブログは当てはまらないかもしれない。) 自分を貶して、落ち込んでも変わることはできない。もし、変わるとするとマイナス方面への変化でしかない。 しかし、 『自分を認め、褒める』 ことで、 『もっと褒められるためには、どうしたらいいのか?』 自然に考え、行動がかわるはず。 その一歩を踏み出すことが一番大事なこと。 誰でも、明日、朝起きたら、別人のように変わることは、絶対にない。 今までの自分とちょっとだけ違う考え(プラスな)を持ち、ほんの少しの言動の変化が、大きな変化(成長)に繋がっていく。 そのためにも、 『先ずは、自分を自分で褒めよう。』 気付くと、周りの人も 『自分を褒めてくれ』 変化が加速して行くはず。 しつこいけれど、 『絶対に自分を甘やかさない(甘えない)』 ように。

指示待ちの社員は、正しいのか?間違っているのか?

職場で、必ずいるだろう、指示をひたすら待つ社員。 「ちょっとは、自分で考えろよ。」と、思うこともあるけれど、本当に間違っているのだろうか?と、ふと、疑問に思う時がある。 今の日本の殆どの会社では、上司からの 『指示』 を待ち、それを忠実、確実に実行することが求められることが多い。 積極的にオリジナリティや改善案を提案しても、 『邪魔者扱い』 されてしまうし、只、言われた通りのことばかりしていると、 『できない社員』 扱いされてしまう。 指示待ちは、正しくもあり、間違いでもある。 『バランス』 感覚が優れている人は、 『指示』 を待つもの、 『自分で判断』 するものを区別し、実行していくけれど、そんな人ばかりではない。 『何をどうしたら良いのか、わからなくなってしまう』 人も少なくないはず。 本来は、この 『バランス』 を上手に操るのが管理職の仕事であり、誰にでもわかるように明確なラインを引くことが部下を持つ上司としての役目だ。 しかし、そんな上司ばかりではない。 上司の顔色を伺いながら、そのラインを巧みにコントロールすることが、仕事を自分のペースで楽しくすることができる秘訣だ。 だったら、そのラインの上げ下げは、どうしたらいいのだろうか? 僕は、基本的に一度、指示を受けたものは、再度、指示を待つことはしない。 しかし、たえず状況は、変わってくる。 だから、「今回は、こうでいいのか?」確認は、行うようにしている。 指示されるのではなく、指示を促すのだ。 もちろん、上司が忙しくしている時などは、確認を後回しにして、事後報告する場合もある。 どちらにしても、指示を待っているより、早く仕事を進めることができる。 ただ、 『出る杭は打たれる』 じゃないけれど、人の上に一度立つと、 『教える快感』 に捉われ、自分に聞かずにことを進める部下を好ましく思わない上司も必ずいる。 そんな上司は、たいていが 『使えない上司』 だけれど。 そんな場合には、積極的(いつもより多く)に 確認 、 報告 をするようにしよう。 そして、初めて経験する(聞いた)ことは、できる限り 相談 しよう。 どちらの場合であっても、「さすが」「聞いて良かった」など、自分の言葉(仰々しくない)を添えるように。 それだけで、上司に可愛がられる

毎日、昨日の自分より、成長しよう。

日々、勉強することが大事だし、僕も毎日、何かを吸収し、自分のものにしようとしている。 但し、社会人の勉強は、子供たちのように漢字を練習したり、計算したりではない。 話題作りのために、テレビやネットを流し見するのも勉強の一貫だと思うし、話題や人気のお店に行って見るのも勉強だと思っている。 勉強を難しく考える必要はない。 もちろん、業務に関わることを調べ、自分の知識にすることは、何より優先したい勉強だ。 子供も大人も、日々、勉強し、昨日よりも一歩でも、前進しなくては、いけないのかもしれない。 生まれたての赤ちゃんも、勉強を意識していなくても、日々、何かを覚え、成長している。 ただ、学生までの勉強と、社会人になってからの勉強で大きく違うことは、 『吸収だけではいけない。』 ということだ。 学生までの勉強は、ひたすら 『吸収』 することが重要になってくる。 いつの日か、 『吸収』 した知識を使う機会を待ち、エネルギーを溜めている状態だと思う。 しかし、社会人となれば、勉強で得た知識を 『吸収』 するだけでは、いけない。 むしろ、 『吸収』 した、エネルギー(知識)を放出しなければいけない。 『吸収』 だけでは、何の役にも立たない。その知識を利用するからこそ、自分に付加価値がついてくる。 付加価値がない人は、周りから見て、どうしても物足りなく感じてしまう。 付加価値が、人としての魅力を自分に飾り付けていってくれるはずだ。 そのためにも、これまで溜めたエネルギーだけだは、すぐに使い切ってしまう。 日々、勉強し、エネルギーを随時、補給しながら進んでいくしかない。 そう考えると、 『毎日、何かを勉強しなくてはいけない。』 ということは、非常に困難なことに思ってしまうけれど、そんなに大変なことではない。 むしろ、簡単なことだ。 昨日まで知らなかったことを覚えるだけでいい。 難しいと思うと難しいことになってしまうけれど、簡単だと思えば、簡単にできてくる。 例えば、明日の天気を知ることも勉強の一環にもなるし、知識にもなる。 又、コミュニケーションを取る簡単な知識の一つであり、明日の天気を知ることでコミュニケーションを円滑に進める重要な手段にもなる。 (毎日、天気予報だけ見て、自分が成長したと思うのもあれだけど。)

週の初めは、元気よく。

多くの人は、月曜日が今週の仕事の初日になると思う。僕も同様に、今日が今週の始まりだ。 殆どの人が、自分のプライベート(人生)をより、充実させるために仕事をしていると思う。 休日に趣味などで、クタクタになるまで過ごしている人も多いことだと思う。 プライベートが充実していることは本当に良いことで、僕も憧れるし、僕も今以上にプライベートを充実させたいと思っている。 (こんなブログをしているが、僕は、仕事人間ではない。プライベート重視だ。) プライベートが充実した方が、仕事にも 『やる気』 が出るし、結果的に仕事も充実してくる。 仕事オンリーで、プライベートを犠牲にしている人で、本当に仕事ができる人は、見たことがない。中途半端にできる人は、多々いたけれど。 しかし、僕は、休日の翌日こそ、大事にしている。 休日に疲れ果ててしまうのは、しょうがない。でも、それを職場に引きずってはいけない。 多少、無理をして(空元気)でも、普段以上に元気を出すべきだ。 遊び疲れで、ボーっとするのは、問題外だ。 他人から見て、休日明けに元気が良い姿を見ると、 「この人は、仕事もプライベートも充実しているな。いいリフレッシュしたんだな。」 と、思うけれど、遊び疲れてボーっとした姿を見ると、 「プライベートを大事にするのもいいけれど。いつまでも、子供じゃないんだから。」 と、思ってしまう。 休日は、仕事をしている人、誰にでも与えられてる権利だし、人様々の過ごし方があり、それは自由だ。 ただ、僕は、休日明けに元気な姿を見せている同僚のプライベートや趣味は、気になり、どんな休日を過ごしているか聞きたくなってしまう(僕も、マネしたい)けれど、遊び疲れた姿の同僚のプライベートや趣味は、興味が湧かない。 たぶん、僕だけじゃなく、多くの人は同じ意見を持ってくれると思う。 周り(同僚)の印象は大事にしないといけない。周り(同僚)の印象次第で、自分が優位に仕事を進めることができるか?どうかが、掛かってくる。 仕事をしているからこその休日だから、休日明けには、疲れていても意識して、元気をだそう。 遊び疲れを次の日まで残すのは、本当の意味でプライベートが充実している訳ではない。 例え、疲れていても、気分がスッキリとリフレッシュでき、疲れを引きずらないことこそ、本

心が折れそうときには、どうする。

僕は、心が折れそうになることが多々ある。 本当に些細なことや、失敗が続いたりした場合、どうしても心が折れそうになってしまう。 というより、折れている。 このブログで仕事が、メンタル次第(気の持ちよう)で、変わることを散々伝えている僕の方が、本当は、誰よりもメンタルが弱いのかもしれない。 僕は、幼少期の環境からか、 『自分が認められない』 ことや 『必用とされていない』 ことに強く反発してしまう傾向がある。 自分の短所であり、治さなければいけないと何度も強く思っている。 しかし、長年付き合ってきた、この性格は、そう簡単に変えれるもではない。 手強い相手だ。 仕事上、何とか理性で抑えることができたにしても、プライベートに悪影響を及ぼし、家族に迷惑(八つ当たり)を掛けたこともある。 そんな僕を受け止めてくれる家族(特に妻)には、感謝しかない。 いつか、必ず恩返しをしなくてはと、本気で考えている。 (必ず、 有言実行 する。) そんな僕だから、心が折れそうなときは、本当に多々ある。 そんな、心が折れそうなとき、僕は抵抗はしないようにしている。 自分がダメな人間だと、しみじみと思うこともある。 なるべく頑張らずに、素直に折れる。頑張ってもしょうがない。 そこで、頑張りすぎると、心が折れたときの衝撃がより強くなってしまう。 傷は、浅い方が治りやすいと思う。 だから、簡単に心が折れたほうが、立ち直りやすいと思っている。 昔、友人に「無理せず、適当に頑張りな。」と、声を掛けたことがあった。 後日、友人から、感謝された。 僕には、その時の友人の心境は気にせず、発した言葉だったけど、その時の友人は、僕に言えない悩みがあり、自分を追い込んでいたみたいだ。 僕の適当な言葉が、友人の肩の力を抜くことに役立ったみたいだ。 心は、そんなに強くない。 心が折れそうなときに頑張っても、深いキズが残るだけ。 柳のように、風に任せて折れないように受け流すか、深く折れる前に、キズが浅く済む段階で早く折れてしまうのが必要だ。 骨折と同様(僕は、医者じゃないので噂程度だけど。)に、折れた心は強くなるし、キレイに折れれば、治りも早い。 どんどん心を折って、どんどん心を強くしよう。

仕事の人間関係に『好きか?嫌いか?』は、邪魔なだけ。

僕は、仕事での人間関係に 『好きか?嫌いか?』の選択肢 は設けていない。 仕事で関わる人は、全て『好き』がベースとなっている。 その訳は、あくまでも仕事を通しての人間関係であり、プライベートをともにすることは、滅多にないし、 『好き』 をベースにすることで、相手に興味がわき、相手のことを 『もっと知りたい。』 と、欲求が自然に湧いてくるからだ。 『もっと知りたい。』 と、思えば、 『今、何を考えているんだろう?』『本当は、何を求めているんだろう?』 と、自然と考えているはず。 気付くと、良好な人間関係が築けている。 人は誰でも、自分に好意を抱いている人を邪険にしたりすることはない。 ただし、踏み込み過ぎは、逆効果になってしまう。相手と自分の距離感を確かめることが重要になってくるけれど、決して、難しいことではない。少しづつ踏み込み、どこまでが許容範囲か確認しながら、踏み込めば良いだけ。相手が拒否するような時は、それ以上踏み込んではいけない。それだけだ。 そして、昨日 『シンプル イズ ベスト』の発想が重要だ。 の続きになるけれど、人間関係を考える時の選択肢から 『好きか?嫌いか?』 が無くなり、より、シンプルに考えることができる。 物事は、複雑に考えるより、シンプルに考えた方が絶対に良い。 特に、人間関係においては尚更だ。 相手が何を考え、何を求めているのかなど、考えながら良好な人間関係を築こうと思えば、気疲れしかしないけれど、 『好き』 をベースにすれば、自然と相手のことを知りたくなるから、そんなことを考えようと思う前に、考えているはず。 その後は、『自分にとって、メリットがある?ない?』でも、『出世する?しない?』など、何でもいい。 選択肢から 『好きか?嫌いか?』 を外し 『好き』 をベースにするだけで、余計な選択肢を殆ど排除することができる。 だから、仕事の人間関係に 『好きか?嫌いか?』 は、邪魔なだけ。 そして、 『好き』 になるのコツは、所詮、仕事の間だけだし、相手を 『好き』 になるのも仕事の一部だと思うこと。 それから、相手の悪い所を見つけたら、良い所をその倍以上探すこと。どんな人でも、良い所は必ずあるはず。(ゴミを拾っていたなど、小さなことから) 相手の良い所を探す癖をつければ、自然

『シンプル イズ ベスト』の発想が重要だ。

仕事は、『シンプル イズ ベスト』の発想が重要になってくると、僕は考えている。 世の中には、複雑なシステムで、成り立っている会社もあるけれど、一つ一つに分解すると単純な仕事を組み合わせているだけだ。 それをわざわざ、複雑に解釈する必要はない。 例えば、営業の世界であれば『売れるか?売れないか?』が、基本だ。 これは、営業の仕事に携わったことがない人でも、簡単にわかると思う。 もちろん、突然、赤の他人に『買いますか?買いませんか?』と、営業しても、10人中、10人買うことはない。 それなら、どうしたら『売れるか?売れないか?』を考えていけばいい。 例えば、 売れる→商品のデモンストレーション→商品PR→話を聞いて貰える体制づくり→信頼関係の構築→顧客訪問→訪問先のリストを作成→その商品の販売対象を知る と、順番を逆に追っていき、一つ一つの階段を上るだけで、簡単に販売することができる。 ただ、営業の仕事で、成績が上がらずに悩んでいる人の多くは、嚙み砕くことをせず、そのまま全てを並行して実行しようと考えてしまい、その複雑さについて行けず、成績を上げることができずにいる。 自分でシンプルなはずの階段を複雑にしてしまい、上ることができない階段にしてしまっているだけだ。 人はみんな、物事を考える時、幾つものことを同時に考えることはできないと思う。 コンピューターと同様に『YES・NO』の選択肢を繰り返しているだけだ。 その選択肢が多いか?少ないか?で、その人の価値が決まってくると思う。 選択肢を増やすには、多くの経験を得ることが最短だ。 だからこそ、幾つものことを複雑(並行)に考える必要はない。 一つ一つ、階段を昇ればいいだけ。 例えとして、営業の仕事を出しただけで、全ての仕事に通じることだと思う。 そして、今回、僕が一番伝えたいことは、考え方(階段)の順番(上り方)が、わからない人が対象ではない。 考え方(階段)の順番(上り方)が、わからない人は、切っ掛けがなかっただけで、すぐに階段を上ることができるようになるけれど、自分が周りより、賢いと思っている人へ、向けている。 自分が賢いと思っているほど、先を読んでいる自分に自惚れ、まるで罠を仕掛けるように複

どうせミスするなら、攻めてミスしよう。

僕は、小中高とサッカーをしてきた。サッカーは好きなスポーツの一つなんだけど、サッカーを見ていると、いつも思うことがある。 フォワードは、ミスが許されるけれど、ディフェンスは、ミスが絶対に許されない。 フォワードと、ディフェンスの緊張感は雲泥の差じゃないかと思う。 と言う僕は、フォワードだったんだけれど、緊張感もなく、サッカーをしていた訳じゃない。 (フォワードを馬鹿にしている訳ではない。フォワードもミスが絶対に許されない場面も多々ある。) ここで、言いたいのは、仕事に通じる攻めるミスと守るミスの差をわかりやすく説明したいと思い、敢えてサッカーに例えてみた。 フォワードは、シュートミスを繰り返しながら、ゴールを目指し、一度の成功(ゴール)で、勝利に導き、ヒーローになることができる。 しかし、ディフェンスは、決してミスが許されない。たった一度のミスが負けにつながってしまうからだ。 この差は、攻める(開拓)する勇気と守る(維持)する差だと思う。 新しく開拓していく(攻める)には、勇気が必要だ。 時には、失敗するとわかっていても開拓(攻める)なければいけない。 決して、失敗を恐れて開拓(攻める)ことは、できない。 それと、反対にこれまでの状況を維持する(守る)ことは、容易なことではない。 些細な変化にも気を配り、その変化に随時対応しなければいけない。 (会社の売上を維持するのにも、競合他社の価格の変動や、新規参入などに対応出来なければ淘汰されて(負け)しまう。 決して、ミスが許されない。 仕事も同様に、新しい商品開発や業務改善に勇気を持って、どんどんチャレンジするべきだと思う。 そこで犯すミスは、ミスではない。 チャレンジした勇気の証だ。 だからこそ、仕事上の攻めるミスは、どんどんするべきだと思う。 ミスを恐れて攻めることを諦めては、決して勝利することはできない。 サッカーのフォワードと同じように、数多くのミスを繰り返したとしても、たった一度の成功がチーム(会社)を勝利に導くことができるはずだから。 しかし、ディフェンスが、しっかりと守って(維持)してくれるから、攻めること(開拓)できることを忘れてはいけない。 ディフェンスに不安要素があれば、フォワードもディフェンスにまわらなければ、負けるのは、火を見