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子供と大人の違いって何?

よく、仕事やプライベートでも、 「子供じゃないんだから。」や「子供っぽい。」 など、話に出てくることがあるけれど、子供と大人の違いは何だろう? 年齢を重ね、20才になったら、大人 『成人』 に、なるけれど、それが本当の大人と子供の境目ではないと思う。 僕には、正しい境目がわからないけれど、世間で一般的には、 『自立した時(親の力を借りずに)』 が、境目にされるケースが多い様な気がする。 でも、親の力(七光り)を借りたにしても、立派に仕事をしている大人もいるし、未成年や学生であっても、親の力を借りずに立派に生活している子供?もいる。 境界線が曖昧な 『大人と子供』 だが、 「子供じゃないんだから。」 など、会話によく出てされても、受け手にとって、解釈が違ってくるだけだと思う。 受け手の解釈が違えば、本意は伝わらずに、話の無駄とまでは言わないけれど、それに近い物がある。 この、 『大人と子供』 の境界線は、絶対に定まらないし、解釈の違いは、埋まらないと思う。 それでも、構わないと思う。 僕は、僕が会話で出す 『大人と子供』 の境界線を伝え、相手に理解して貰えるように、僕が努力すれば良いだけだから。 そして、僕の解釈では、 『大人』 とは、 『守るべきもの』 ができた時だと思う。 (決して、結婚して、家族ができた時に、守るものができるわけではない。) 家族であっても、友達であっても、同僚や部下であっても、構わない。 『守られる側』 から、 『守る側』 に変わった時、人は、 『大人』 になるんだと思う。 それは、 『誰かを守りたい』 そんな思いだけでも、関係ないと思う。 いくら、 『体』 だけが大人になっても、 『誰かに守られることに安心(慣れたまま)』 では、まだまだ、子供だ。 例え、生活が自立しているにしても、人に頼ってばかりでは、子供だと思う。 僕は、せめて家族には頼られ存在になりたいと思う。 そのために、自分を犠牲にするという訳ではない。 もちろん、時には、自分を犠牲にする場合もあるかも知れないが、それ以上の何かを見つけた時、 『本当の大人』 になるんだと、僕は、思っている。 それは、人によって違うと思う。家族の笑顔だったり、裕福な生活だったりするかもしれない。 『守りたい』 という、思いと、自分

上司がいない時に、見えてくるもの。

今日は、上司の休日だった。そんな時だからこそ、見えてくるものがあった。 同僚の中でも、仕事ができる方だと思っていた人がいる。 これまで、新しい仕事に慣れるため、仕事の仕方を重視して見ていたため、同僚の行動、考え方は重要視しておらず、人物像の見極めを怠っていた。 最近は、余裕もできてきて、同僚の人物像を観察し始めて、行動に疑問符がつくケースが多々、見受けられるようになった。 それが、今日、直属の上司が休日で、不在にしていた時の行動を見て、確信した。 『ダメだ。結局、仕事のできない人だった。』 と。 ちょっとは、仕事ができる人と思った、自分がまだまだ、人を見る目は、なかったと、ガッカリしてしまった。 朝、出社は遅い(いつもと比べて、かなり)。 自分でできることも、上司気分でせずに他人に任せる。 そのくせ、責任感があるわけでなく、自分の担当する仕事を優先し、同僚から、協力してもらいながらも、他の同僚がしている仕事には、手を貸さずに上司気取りで口だけ出す。 僕の中で、その同僚の評価は、音を立てて、落ちて行った。 こんな風に、普段とは違う環境になった時、行動や態度が、どう変わるかで、その人の本来の姿が見えてくる。 普段、上司の前では、キレイごとを言っている人が、上司がいない時に、ココぞとばかり態度や行動を変える人は、案外多い。 そんな人を見ると、僕は、 『くだらない人間』 に関わりたくないと思ってしまう。 それとは、正反対に、リーダーシップを取れる人もいる。 上司面ではなく、周りを見て、今、自分が何をすべきか、そして、適材適所を考え、上司のように 指示ではなく、さりげなく適材適所になるよう、誘導できる、 人もいる。 そんな行動ができる人は、いずれ人の上に立てる候補だ。 適材適所への配置は、決して難しい物ではない。 誰でも、同僚の普段の行動を見ていると、何が得意で、何が苦手かは、上司以上に自然とわかっているからだ。 しかし、ここで配置を指示すると、同僚からの反感を買ってしまう。 そこで、さりげなく、誘導できる人は、やはり優秀だ。 僕も、そうなりたいと日々思っている。 しかし、今の同僚にそんな人物はいない。 そろそろ、僕も 『爪を隠している』 場合では、なくなってきた。 権力争いに疲れて

責任が重くて、つらい。

昨日、責任感についてのブログを書いている際、適した画像は、ないか検索していた時、責任感に押しつぶされそうな画像を見つけ、責任感があることは、良いことだけど、責任感に押しつぶされそうになっては、本末転倒だと思う。 今日は、昨日の続きみたいなものだ。 昨日のブログ『プロ意識を持つだけで、責任感が身につく。』 僕は、 責任感を楽しんで欲しい と考えている。 『責任』 は、確かに重いけれど、決して、一人で抱えるものではない。 真面目な人ほど、 『責任』 を一人で抱え込んでしまいやすいけれど、それは間違いだ。 一人で何もかもしようと思っても、できることに限界はある。自分の限界に近づけば近づくほど、プレッシャーとなり、ストレスがたまる一方になってしまう。 以前書いた『 ストレスをプラスにする。 』 どころではなくなってしまう。 もっと、仲間や同僚を信用して、任せていこう。 一人で、抱え込んでしまうのは、極論かも知れないが、仲間や同僚を信用していないと同じことだ。 もちろん、信用できない場合もあるかも知れない。しかし、信用できないと思う時は、危険信号が点滅している。 プレッシャーに負けかかっている証拠だ。 そんな時は、ひと呼吸おいてから、なぜ、信用できないのか理由を探ろう。 「まだ、未熟なのか?できるけど、やらないのか?」 など、自分がなぜ信用できないと思うのかをしろう。 ここで、 信用できないから、自分でやった方が早い。正確だ。などと、自惚れて、仕事を取り返してしまってはいけない。 信用できない理由がわかれば、改善策が見えてくる。 例えば、 『未熟』 であれば、経験をつませ、成熟させる。もし、時間的な余裕がなければ、任せながらも、重要なポイントに差し掛かった時に手を貸す。得意なことを任せる。など考えられるし、 やる気がないのであれば、 『なぜ、やる気がないのか?』 理由を探れば、「本当は別の仕事をしたい。僻んでいる。信用されてないことに気付いている。」など、原因があり、それを取り除くことで、今まで以上の力になってくれるはず。 仕事は、決して一人で行うものではない。 『何でもできて、他に変わりがいない人』 は、 『仕事ができる人』 ではない。 むしろ、自惚れているだけで、 「仕事が中途半端にしかできない人。」 だ。 (芸

プロ意識を持つだけで、責任感が身につく。

僕の中で、仕事に対する責任感は、その人の仕事の能力を見るうえで、非常に重要な位置にある。 特に、新しい仕事を始めた今は、自分より、社歴が長い人ばかりだが、 「この人は、どんな仕事をしているのか?何に長けているのか?責任感はあるのか?」 を勝手に判断し、僕が今後、成長していくためには、誰のどの部分を真似をすればいいのか。同僚の良いとこ取りをしていきたいと考えている。 『 責任感のある人』 が、見本であれば、段取りよく仕事を進め、極力無駄なことをしないので、追いつくまでは、取り敢えず見本にして、真似をして行こうと思う。 しかし、 『責任感のない人』 の場合、一部の仕事の技術はあるにしても、真似するほどでは、ない場合が多い。 傍から見ても、段取りが悪かったり、本当は何がしたいのかわからない場合が多い。 一部の長けている所だけ、真似をして、その仕事の本来の最終目標を考えながら、自分なりの改善点を探して行く。 一部の仕事を真似するだけなので、追いつくのは容易い。 なぜ、 『責任感のある・なし』 だけで、 『見本にする場合と、それに値しない場合』 の違いができるのかは、明確だ。 『責任感のある人』 は、大抵、視野が広い。 そのため、同じ仕事をする場合でも、周りの人の状況、時間的制限、並行して進めている仕事の内容などによって、仕事の仕方が変化している。 だからこそ、段取りよく仕事を進めている。 反対に 『責任感のない人』 の場合、仕事に変化がない。現状を把握しようとせず、その仕事を終わらせることだけに夢中になっている。 そのため、いつもと違う流れになると、戸惑ったり、ミスを多発してしまったりする。 (それは、それで反面教師には、なるけれど。) そう考えると、仕事において、 『責任感』 は、あるに越したことはない。 なら、 『責任感』 を持つために必要なことは、なんだろう? 僕は、決して難しいことではないと思う。 『プロ意識』 を持つ。これが、最初の切っ掛けになる。 プロと聞くと、スポーツ選手やミュージシャンを思い浮かぶけど、仕事をして、お金を貰っている以上、誰もが、その仕事のプロだ。 アルバイトやパート、正社員など、関係ない。プロはプロだ。アマチュアではない。 そう考えると、スポーツ選手やミュージシャンと同様に、観

コミュニケーションが苦手な人はウソをつけ。

小さいころ、 『ウソ』 をついては、いけないと、よく言われた。 確かに人を騙す 『ウソ』 は、いけない。 しかし、 『ウソ』 のない世界は、窮屈で住みづらい世界になってしまう。 『ウソ』 を今まで、一度もついたことがない人と僕は、合ったことがない。 ( 『ウソ』 をついたことがないか、確認した訳ではないが、100%の人がウソをついたことがあると思う。) 例えば、子供の頃なら、学校に行きたくなくて 「頭が痛いから、学校に行けない。」 や、大人になってからでも、 太っている人に「太ってなんかないよ。」 など、屁理屈に近いけれど、全ての人が 『ウソ』 をついているはず。 それならば、ついて 『いいウソ』 と 『悪いウソ』 の違いは、何だろう。 相手を思いやってつく 『ウソ』 は、 『いいウソ』 。 相手が不快にさせてしまうのは 『悪いウソ』 。 の、簡単な線引きができると思うけれど、相手によって線の位置が微妙に違っていて、コミュニケーションを苦手とする人にとっては、難しい時もある。 『ウソ』の加減がわからないから、コミュニケーションが苦手なんだと思う。 『ウソ』 をつくことが不慣れな人は、先ず、すぐにばれる 『ウソ』 をつけ。 そして、その 『ウソ』 がバレた時に相手が笑ってくれたり、感謝してくれるような 『ウソ』 を。 バレることが前提で 『ウソ』 をつくなら、その後の展開が比較的にわかりやすい。 相手を思いやってつく 『ウソ』 は、 『いいウソ』 であっても、加減がわかりづらく、人によっては、不快な気持ちにさせてしまう。 例えば、太っている人に 「太ってなんかないよ。」 と、言った時、相手の気持ち次第で、「 思いやってくれてありがとう。」 と思う場合もあれば、 「本当は太っていると思っているくせに。」 など、 『悪いウソ』 に取られてしまう場合もある。 でも、 『ウソ』 がバレる前提であれば、 「太ってなんかないよ。でも、もう少し痩せたら、もっと魅力的になれよ。」 など(上手い例文じゃないかも)、 『でも』 の、時点で 『ウソ』 をついていることがバレる前提での会話になる。 そうすることで、相手に不快な思いをさせてしまっても、後に引きずらずに、その時点で対応できる。 ( 『でも』 ってことは、太っている

自己保身は、本当に自己保身になる?

僕は、ならないと思う。 今日、取引先とのトラブルがあり、その際、取引先がとった言動が、あまりにも自己保身に走りすぎて、僕もイライラしてしまい、 『愚痴おやじ』 の名前のまま、本当の愚痴です。 こちらにも非があり、会社間のトラブルだから、なるべく穏便に済ませたいと思いながらも、「自分は悪くない」の一点張りの対応をされ、僕も冷静さを失って、感情に任せてしまい、まだまだ、子供だと反省している。 でも、正直ムカついた。 そんなことから、時間が経過し、冷静になった時、 『自己保身』 に走る人は、よくいるけれど、結局は 「自分を本当に守れているんだろうか?」 と疑問に思った。 僕は、そう思わない。 自分に都合の良い解釈で話をされても、誰も納得いかない。その時、僕みたいな自己が強い人ではない時は、相手を言いくるめてしまうこともできるだろう。 でも、それは、本当の解決ではないと僕は思う。 目につかないように隠しただけじゃないかと。 隠したものは、いつか見つかる。その時、また、その上に何かを掛け、さらに奥深くに隠すしかない。 本来、早い段階で、解決策を見出すことで、傷は浅くて済み、治すことも容易にできる、はずなのに、隠してしまうことで、見える傷はなくても、見えないところで傷は、手に負えなくなってしまう。 隠しごとを最後まで貫けるなら、いいけど(ウソも突き通せば本当になる。みたいに)大抵はバレる。 隠し事がバレた時、浅くて済むはずだったのが、深い傷になっていて取り返しつかないことになってしまうんじゃないかと思う。 そうすると、 『自己保身』 のために、取った言動が、実は 『自分を追い込んでしまっている』 んじゃないかと思う。 人は誰しも、間違いやミスを犯してしまう。 その際に、取る行動がこれからに大きく左右して、成長することもあれば、退化してしまうこともあると思う。 特に、自己保身は、第三者から見れば、ハッキリとわかるし、自分の価値を落としているだけだと思う。 だから、『自己保身』は、自分を守っていない。 その場を繕って、隠しているだけでしかない。 本当に自分を守りたければ、自分に非がなくても、反省し、解決策(トラブルの回避策)を見出すことで成長し、強くなるからこそ、自分を守ることができる。 以前、 人のせい

「すみません。」が、口癖になってない?

僕の同僚に、 「すみません。」 が、口癖の人がいる。 これまで出会った人の中にも「すみせん。」が、口癖の人は、案外多かった。 何かを貰っても、用事があって声を掛ける時も、そして、怒られても、いつでも「すみません。」 「すみません。」が、口癖の人は、大体、気が弱く、自分に自信を持てない人に多いと思う。 気持ちは、わからなくはないけれど、「すみません。」が口癖になってしまうと、気分が滅入ってしまうんじゃないかと心配になってしまう。 実際、暗くなっている人が多い。 これまでの僕の部下にも、現在の同僚にも、悪いことをしたわけじゃないから、「すみません。」ではなく、 「ありがとう。」 に言い換えた方が良いよと伝えている。 (間違いや失敗した時も、教えてくれて「ありがとう。」の意味で「ありがとう。」で、いいと思う。) そうすることで、気分も明るくなるし、相手にも良い印象を与えるから、「ありがとう。」を意識して使うように進めるけれど、そんな話を聞いた後にも、「すみません。」の一言が。 あ~、やっぱり、重症の人が多い。 意識するだけでも、最初の一歩 にはなる。自分で、「すみません。」が、口癖だと思ったら、「ありがとう。」に、言い換えようと思うことから、始めよう。 そして、次に自分の得 意なこと、長所を伸ばそう。 苦手なことを無くして、自分に自信が持てるようになれば、自然と「ありがとう。」が、口癖になっているとは思うけど、苦手なことや短所を改善していくことは、簡単なことではない。 しかし、自分の得意なこと、長所を伸ばすことは決して難しいことではない。 積極的に得意なことを行い、経験を積むことで、さらに磨きがかかる。 最初は、一部分かも知れないけれど、周りから頼りにされると、『 自分に自信がついてくる』 自信がついてくると、今まで苦手にしていたことにもチャレンジしたくなり、益々 『自分に自信がついてくる』 そんな良いスパイラルにハマると良いんだけれど。 しかし、仕事を選ぶことができずに、苦手なことばかり、やらなければいけない時もある。 そんな時には、毎日、本当に小さな目標を持つべき。 今の自分が少し、ちょっと、背伸びするだけで、達成できる、本当に小さな目標を。 毎日、毎日、自分が一歩ずつ進んでいる実感を得ることで、