自分が、本当にやりたかった仕事に就き、実際の仕事内容も充実して、全てが納得、満足している人は、極僅かじゃないだろうか。
みんな、それぞれ、給与・待遇・仕事内容・人間関係などの悩みが必ずあり、それでも仕事を続けていると思う。
もちろん、僕にも悩みはある。今現在の給与も、以前の仕事をしていた時の3分の1位で、家族にも申し訳ないと、日々感じている。
しかし、僕の場合、色々な事情があり、今の仕事を投げ出すわけにはいかない。
以前、僕の友人がプロのスポーツ選手になったことがある。
その友人は、同じスポーツをしている僕たちとは、次元が違い(別格)で、プロへ転向する話を聞いた時、僕を含め、周りのみんなも納得したほどだった。
友人もその競技が本当に好きだった。
しかし、友人がプロに転向してから、1・2年したころ、友人が悩み始めた。
最初は、趣味の延長でお金を稼ぐこともでき、天職と感じていたはずが、次第にプロのスポーツ選手として、スポンサーから、結果を求められるプレッシャーが原因だった。
元々、自由気ままな友人にとって、自分が乗り気になれない大会にでること自体、楽しいことではなかった。
しかし、多額のスポンサー料を貰うからには、スポンサーの期待や意向に沿わなければいけない。
好きだったはずのスポーツが、嫌いになってしまった。
どうしても、その二つの狭間で悩み続け、結果、僕の友人は、プロを捨てた。
僕は、彼らしいと思った。そして、以前の自由きままな友人に戻り、ホッとした。
本当は、彼を叱咤激励して、プロの道を極めるように後押しするべきだったのかもしれない。
しかし、僕は、友人と一緒に遊びで、そのスポーツをしに行った時、「愚痴おやじは、いいよな。楽しそうで。趣味のままの方がよかった。」と、ふと口にした。
20年以上たった今でも、忘れられない言葉だ。
だからこそ、友人には、得意なスポーツを心底、楽しんで欲しいと思ったし、一緒に楽しみたいと思った。
そんなことがあり、僕は、友人の決断に納得した。
今でも、友人は、そのスポーツを楽しんでいる。最近は年齢が年齢なのであれだが、ちょっと前までは、友人を知らない人もレベルの違いを感じたはずだ。
楽しみながら、自由にプレイする友人は、プロの肩書がなくても、輝き、人の目をひいた。
僕も、そんな友人を見て、友人の決断は間違っていなかったし、それを応援した僕たちも間違っていなかっと思っている。思いたい。
悩んだ顔をした友人より、自由気ままに楽しんでいるのが友人だと思うからだ。
だから、好きなことをやることが、仕事があっているわけではない。
大なり、小なり、悩みは誰にでもある。
その悩みと仕事を天秤にかけ、仕事を続けるべきだと自分で判断したなら、その仕事は、合っているんだと思う。
逆に、悩みが重ければ、その仕事は、自分に合ってないと判断しなければ、いけないのかもしれない。
仕事が合う。合わない。は、非常に難しい判断になる。
悩みを乗り越えれば、別の世界が待っているかもしれない。悩みがない人は、決していない。
しかし、仕事は、友人と同様に、本来の自分を捨ててまで、やらなければいけないことでもない。
『好きなことを仕事にしたから、自分に合っている仕事ではない。』
あくまでも、仕事は、仕事。人生の全てではない。
今までの僕の書いた内容と違うことを言っていると思う人もいるかもしれないが、僕は、そう思う。
仕事は、いくらでもある。自分を捨ててまで、続けることはないと、僕は思う。
但し、友人の名誉のためにも、最後に一言。
「彼は、プロの世界から逃げたかもしれない。しかし、友人は、そのスポーツから逃げたわけではない。僕たちと同様に結果に捉われず、趣味として、楽しむことを選んだのだ。
だから、友人は、決して逃げたのではない。」
僕が、常々思っている、「一度逃げたら、逃げ癖がついて、また次も逃げてしまう。」は、友人には、決して当てはまらない。
僕も、今の環境に決して満足しているわけだはないし、今の仕事が僕にあっていると思っていない。
しかし、僕は、今の仕事を続け、自分に合った仕事へ、変化させようと考えている。
みんな、それぞれ、給与・待遇・仕事内容・人間関係などの悩みが必ずあり、それでも仕事を続けていると思う。
もちろん、僕にも悩みはある。今現在の給与も、以前の仕事をしていた時の3分の1位で、家族にも申し訳ないと、日々感じている。
しかし、僕の場合、色々な事情があり、今の仕事を投げ出すわけにはいかない。
以前、僕の友人がプロのスポーツ選手になったことがある。
その友人は、同じスポーツをしている僕たちとは、次元が違い(別格)で、プロへ転向する話を聞いた時、僕を含め、周りのみんなも納得したほどだった。
友人もその競技が本当に好きだった。
しかし、友人がプロに転向してから、1・2年したころ、友人が悩み始めた。
最初は、趣味の延長でお金を稼ぐこともでき、天職と感じていたはずが、次第にプロのスポーツ選手として、スポンサーから、結果を求められるプレッシャーが原因だった。
元々、自由気ままな友人にとって、自分が乗り気になれない大会にでること自体、楽しいことではなかった。
しかし、多額のスポンサー料を貰うからには、スポンサーの期待や意向に沿わなければいけない。
好きだったはずのスポーツが、嫌いになってしまった。
どうしても、その二つの狭間で悩み続け、結果、僕の友人は、プロを捨てた。
僕は、彼らしいと思った。そして、以前の自由きままな友人に戻り、ホッとした。
本当は、彼を叱咤激励して、プロの道を極めるように後押しするべきだったのかもしれない。
しかし、僕は、友人と一緒に遊びで、そのスポーツをしに行った時、「愚痴おやじは、いいよな。楽しそうで。趣味のままの方がよかった。」と、ふと口にした。
20年以上たった今でも、忘れられない言葉だ。
だからこそ、友人には、得意なスポーツを心底、楽しんで欲しいと思ったし、一緒に楽しみたいと思った。
そんなことがあり、僕は、友人の決断に納得した。
今でも、友人は、そのスポーツを楽しんでいる。最近は年齢が年齢なのであれだが、ちょっと前までは、友人を知らない人もレベルの違いを感じたはずだ。
楽しみながら、自由にプレイする友人は、プロの肩書がなくても、輝き、人の目をひいた。
僕も、そんな友人を見て、友人の決断は間違っていなかったし、それを応援した僕たちも間違っていなかっと思っている。思いたい。
悩んだ顔をした友人より、自由気ままに楽しんでいるのが友人だと思うからだ。
だから、好きなことをやることが、仕事があっているわけではない。
大なり、小なり、悩みは誰にでもある。
その悩みと仕事を天秤にかけ、仕事を続けるべきだと自分で判断したなら、その仕事は、合っているんだと思う。
逆に、悩みが重ければ、その仕事は、自分に合ってないと判断しなければ、いけないのかもしれない。
仕事が合う。合わない。は、非常に難しい判断になる。
悩みを乗り越えれば、別の世界が待っているかもしれない。悩みがない人は、決していない。
しかし、仕事は、友人と同様に、本来の自分を捨ててまで、やらなければいけないことでもない。
『好きなことを仕事にしたから、自分に合っている仕事ではない。』
あくまでも、仕事は、仕事。人生の全てではない。
今までの僕の書いた内容と違うことを言っていると思う人もいるかもしれないが、僕は、そう思う。
仕事は、いくらでもある。自分を捨ててまで、続けることはないと、僕は思う。
但し、友人の名誉のためにも、最後に一言。
「彼は、プロの世界から逃げたかもしれない。しかし、友人は、そのスポーツから逃げたわけではない。僕たちと同様に結果に捉われず、趣味として、楽しむことを選んだのだ。
だから、友人は、決して逃げたのではない。」
僕が、常々思っている、「一度逃げたら、逃げ癖がついて、また次も逃げてしまう。」は、友人には、決して当てはまらない。
僕も、今の環境に決して満足しているわけだはないし、今の仕事が僕にあっていると思っていない。
しかし、僕は、今の仕事を続け、自分に合った仕事へ、変化させようと考えている。
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