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12月, 2017の投稿を表示しています

今年最後の大掃除。

年末になると、家庭でも、会社でも一斉に大掃除が始まる。 普段の掃除では、中々しない所まで、キレイにしていく。 僕も職場で、仕事納め、ギリギリまで、大掃除をやってきた。 基本的に掃除は好きなので、隅々までキレイにしてきたつもりだ。 物理的な掃除は、一応終え、気持ちよく新年を迎えることができそうだ。 しかし、今年一年の気持ちの大掃除が、まだ終わっていない。 感謝の気持ちを伝えるべき相手に伝え忘れていないか? 不平・不満を残したまま、新年に引きずらないか? 気持ちも大掃除をして、心身ともにスッキリして、新しい年を迎える準備を早くしないといけない。 不平・不満は、サンドバッグでも叩いて、忘れ、感謝の気持ちは、家族に素直に 「ありがとう」 と言うことにした。 もう少しで、僕の大掃除も全て終わりそうだ。 2018年を気持ちよく迎え、今年よりも、さらに良い年にするぞ。絶対に。

個性って、なんだろう?

ここ最近、個性を重んじる傾向が、変な方向に向かって、進んでいるような気がする。 個性的なことは、決して悪いことではない。僕も、「個性的だ」と、よく言われる。 人には、それぞれの感性や感情があり、歩んできた道のりがある。 そんな人それぞれの個性が集まることで、新しいものが生まれてくるんだと思う。 個性がない、画一的な人の集まりでは、1+1=2にしかならないけれど、個性が集まることで、3にも4にもなってくる。 個性には、そんな力が秘められている。 しかし、最近は、個性の解釈を捻じ曲げ、変な方向へ導こうとする人たちが多く見受けられる。 代表的なのが、子供へ個性を強要する親だと思う。 髪が長い男の子など、一目で性別が判断できない子が増えてきている。 百歩譲って、子供が自分で選んでいるなら、構わない。 しかし、殆どが、親の趣味(希望?)による、強制でしかない。 そんな親に限って、「今は、個性が大事(大切)」や「うちの子は、みんなと違う」など、勘違いな自論を語る。 僕は、そんな人(親)を見ると、「自分の個性のために、子供を利用しているだけで、子供はアクセサリーやおもちゃじゃない」と、つくづく思う。 (僕の意見も、勘違いな自論かもしれないけれど。) しかし、小さな頃から慣ら(洗脳)されてしまうと、本人も気付いた時には、自分の体の性と、気持ちの性との違いに悩んでしまうんじゃないか? 『性同一性障害』の中には、親のエゴに犠牲となった子供たちも少なくないと思う。 これは、『性同一性障害』への偏見ではない。もし、自分の子供が、体と心の性が違っても自分の子供であることは変わらないし、堂々として欲しいと思う。 僕は、個性を強制することが大間違いだと思う。 これは、家庭でも学校でも会社でも同じだ。 強烈な個性の人もいれば、あまり個性が目立たない人もいる。 でも、人それぞれ経験してきた過去は違う。同じ経験をした人は、誰一人といない。 感じ方、行動、表情など人それぞれ違うはず。 だから、誰にでも個性があり、個性的だ。それを必要以上に求めることは間違いだし、必要以上に個性を主張する必要もない。 ただ、自分が思ったことや感じたことを素直に表現するだけで、充分、個性を発揮することができる。 求めらて出す個性は、本当の個性じゃない

本当に変わるためには、何をする?

もし、今の自分を変え、脱皮したいと考えているなら、先ず、するべきことは 『自分を褒める』 ことだと思う。 自分を変えたいと思う時は、大抵、上手くいってない時だと思うけど、そこで、クヨクヨしたり、どうしたら変われるのかを考えても仕方がない。 どんなことでもいい。「上手くいかなくても、頑張れる自分は凄い。」や「イジメに負けずに耐えている自分は偉い。」など、何でもいいから、先ずは、今の自分を褒めよう。 但し、自分で「頑張っているから、少し休憩を。」など、甘やかすのは別問題だ。 第三者の立場で、今の自分の言動を否定せず、認め褒めよう。 (本当は、他人が褒めてくれるのが一番の特効薬かもしてないけれど。) 人は、誰でも褒められると嬉しくなる。 嬉しくなると、さらに 『褒められたい』 欲求が生まれ、今までより、 『もっと褒められるためには、どうしらいいのか?』 自然と考える。 子供を褒めて育てるのと同じ要領だ。 自分を貶すことで奮起できる性格の人もいるかもしれないが、そんなに強い人ばかりではない。 (もし、自分が貶されることで奮起できる人であれば、このブログは当てはまらないかもしれない。) 自分を貶して、落ち込んでも変わることはできない。もし、変わるとするとマイナス方面への変化でしかない。 しかし、 『自分を認め、褒める』 ことで、 『もっと褒められるためには、どうしたらいいのか?』 自然に考え、行動がかわるはず。 その一歩を踏み出すことが一番大事なこと。 誰でも、明日、朝起きたら、別人のように変わることは、絶対にない。 今までの自分とちょっとだけ違う考え(プラスな)を持ち、ほんの少しの言動の変化が、大きな変化(成長)に繋がっていく。 そのためにも、 『先ずは、自分を自分で褒めよう。』 気付くと、周りの人も 『自分を褒めてくれ』 変化が加速して行くはず。 しつこいけれど、 『絶対に自分を甘やかさない(甘えない)』 ように。

話をしっかりと聞く。

僕のブログに、ちょくちょく出てくる「いつも怒られている同僚」が、今日もまた、上司から、怒られていた。 ミスが原因(本当にミスが多い。)だが、なぜ、そんなにミスを繰り返すのか、僕なりに観察した結果、 『人の話をキチンと聞いていない』 ことが、一番の要因だと思う。 ただ、もっと根深い原因に、 『人とのコミュニケーションが苦手』 や 『バカにされたくない(知ったかぶり)』 などもあるかも知れないけれど、ミスの原因としては 『人の話をキチンと聞いていない』 ことだ。 僕と、話をしている時も、話半分で、すぐに行動をしようとする。 気持ち的には、 『前向き』 だったり、 『何かしなくてはいけない。』 などの悪いことではないのかもしれない。 しかし、話半分なので、取るべき行動が間違っている。 案の定、ミスを犯したり、余計な(ムダ)時間が、過ぎてしまう。 人の話を聞くことは、難しいことではないはず。子供でもできる人としての基本的な能力だ。 しかし、話を理解するのは、簡単なことではない。 話相手に興味を持たなければいけないからだ。 子供によくある 『テレビやゲームに夢中になって、話をきいていない。』 が、一番わかりやすいと思う。 「はい」と反射的に返事をしても、何を言われているのかまで、わかっていない。 話相手に興味を持たなければ、同じことだ。 頭が良く、理解力があるとかではない。 何を言っているのか、理解できなくても、話相手に興味があれば、その真意や内容を再度、聞き直す(理解しよう)とする行動が自然と出てくるはず。 プライベートでの興味のない相手に話半分は、とやかく言おうとは思わない。 (僕は、そんな知り合いは欲しくないが。) しかし、仕事は違う。 話相手の言葉を理解しなくてはいけない。 そこに 好き嫌いが入る余地はない。 話相手に興味を持ち、話相手が何を望んでいるのか理解しなくてはいけない。 僕は、わからないことは恥ずかしいことではない。わからないことをわからないままにすることこそ、恥ずかしいことだと思うし、そこに見栄やプライド(知らないと思われたくないなど)があるなら、くだらない人間だと思う。 わからないことを認め、理解しようとする努力こそが重要だと思っている。 そのためにも、話相手に興味を持ち、何を望

指示待ちの社員は、正しいのか?間違っているのか?

職場で、必ずいるだろう、指示をひたすら待つ社員。 「ちょっとは、自分で考えろよ。」と、思うこともあるけれど、本当に間違っているのだろうか?と、ふと、疑問に思う時がある。 今の日本の殆どの会社では、上司からの 『指示』 を待ち、それを忠実、確実に実行することが求められることが多い。 積極的にオリジナリティや改善案を提案しても、 『邪魔者扱い』 されてしまうし、只、言われた通りのことばかりしていると、 『できない社員』 扱いされてしまう。 指示待ちは、正しくもあり、間違いでもある。 『バランス』 感覚が優れている人は、 『指示』 を待つもの、 『自分で判断』 するものを区別し、実行していくけれど、そんな人ばかりではない。 『何をどうしたら良いのか、わからなくなってしまう』 人も少なくないはず。 本来は、この 『バランス』 を上手に操るのが管理職の仕事であり、誰にでもわかるように明確なラインを引くことが部下を持つ上司としての役目だ。 しかし、そんな上司ばかりではない。 上司の顔色を伺いながら、そのラインを巧みにコントロールすることが、仕事を自分のペースで楽しくすることができる秘訣だ。 だったら、そのラインの上げ下げは、どうしたらいいのだろうか? 僕は、基本的に一度、指示を受けたものは、再度、指示を待つことはしない。 しかし、たえず状況は、変わってくる。 だから、「今回は、こうでいいのか?」確認は、行うようにしている。 指示されるのではなく、指示を促すのだ。 もちろん、上司が忙しくしている時などは、確認を後回しにして、事後報告する場合もある。 どちらにしても、指示を待っているより、早く仕事を進めることができる。 ただ、 『出る杭は打たれる』 じゃないけれど、人の上に一度立つと、 『教える快感』 に捉われ、自分に聞かずにことを進める部下を好ましく思わない上司も必ずいる。 そんな上司は、たいていが 『使えない上司』 だけれど。 そんな場合には、積極的(いつもより多く)に 確認 、 報告 をするようにしよう。 そして、初めて経験する(聞いた)ことは、できる限り 相談 しよう。 どちらの場合であっても、「さすが」「聞いて良かった」など、自分の言葉(仰々しくない)を添えるように。 それだけで、上司に可愛がられる

シャンシャンから学ぶ、人気者になる方法。

上野動物園で、生まれたパンダの赤ちゃん『シャンシャン』の一般公開が、いよいよ明日からだ。 観覧申込が殺到して、実際に目にするのは困難なほど、大人気だ。 大人気の『シャンシャン』を多くの人に見てもらうために、上野動物園では、公開と同時に、ライブ配信( ueno panda live.jp )も行うらしい。 (多くの人に見てもらいたい思いもあるだろうけど、動物園に多くの人が殺到することによる、『シャンシャン』のストレス軽減など考慮したんだと思う。) そんな大人気の赤ちゃんパンダ『シャンシャン』赤ちゃんパンダは、なぜ多くの人を魅了するのだろうか? 『シャンシャン』のように、職場で人気者になることで、仕事が楽しくなり、仕事の成果も上がってくるはず。 それなら、どうしたらいいのだろうか? 『シャンシャン』の人気の理由は、 『可愛い姿』『可愛い動作』『癒される』 など、だと思う。 職場で人気者になるためには、『シャンシャン』と同じこと(?)をすれば良いだけだ。 『可愛い姿』 は、仕事に置き換えると、 『清潔感のある服装』『不快な思いをさせない身だしなみ』 などだ。 『可愛い動作』 は、 『無駄な動き(ダラダラ)をしていない』『頼りがいがある』 などだし、 『癒される』 は、 『一緒にいると楽しくなる』『相談にのってくれる』 だ。 他にも『シャンシャンが人気の理由もあるし、職場で人気者になる方法は、まだまだある。 ニュースや話題になっていることには、理由が必ずある。それをちょっと疑問に思ったり、なぜか?と理由を考えるだけで、仕事やプライベートに役立てることも必ずできる。 僕は、ニュースや話題になっていることからも、成長できることがないか、いつも探している。

同僚のミスへの対応。

もし、同僚が 『ミス』 をしたなら、あなたならどうする? これだけの質問なら、その同僚を責めることはないと思う。 しかし、その 『ミス』 のおかげで、あなたにシワ寄せがきた場合にも、同じ対応ができるだろうか? 正直、僕は、その時になって見ないとわからない。 恐らく、多くの人は同じ意見だと思う。 気持ちや身体的に余裕がある際には、笑って許せることでも、余裕がない状況の場合、愚痴の一つや、 『ミス』 を責めることもあると思う。 しかし、余裕がない状況でも、しっかりとフォローできる人になりたいと僕は、思っているし、意識して自分の感情を抑える努力をしている。 人は、誰でも 『ミス』 をする。それは、仕方がないことだし、その 『ミス』 があったからこそ、その 『ミス』 をバネにして成長することができる。 だから、僕はこれまで一度も 『ミス』 を一度もしなかった人よりも、 『ミス』 をし、その 『ミス』 をその帳消しにするための努力をしている人を尊敬している。 (ただ、おなじ 『ミス』 を繰り返すのバカだけど。) そう思っていながらも、いざ自分に影響を及ぼすとなると、冷静さを失ってしまい、あたってしまう時も出てきてしまう。 しかし、それは間違いだと思う。 仕事(会社)にとって、ある程度の 『ミス』 は、折り込み済みだとしても、 『損害』 には変わらない。 その 『損害』 を最小限に抑え、打開策を早急に考え、実行することが必要とされる。 その次に、同じ 『ミス』 を繰り返さないための改善策を考えなくていけない。 あくまでも、 打開策が最優先 だ。 しかし、自分に影響が及ぼされると、その最優先を忘れ、ついつい、その場で責めてしまい、後から冷静になった時に、後悔してしまいがちだ。 でも、他人の 『ミス』 を責めても、何も建設的なことない。 冷静さを失ってしまった、自分の対応も 『ミス』 でしかない。 そのためにも、気持ち的、身体的な余裕は、残しておきたい。 自分に余裕があると、対応も全然違う。 多くの人は、一人で仕事をしている訳ではないと思う。 同僚の 『ミス』 に巻き込まれることも、また、自分が 『ミス』 をし、同僚を巻き込むことも必ずあると思う。 そんな時にも、早急な対応ができるよう、気持ち的にも身体

厳しい上司と優しい上司。

僕が部下を持っていた時、どちらか(間違いなく)というと厳しい上司だった。 今振り返ってみて、少し厳しすぎたかなと思う時もあるけれど、間違ってはいなかったと思う。 自分の部下に、 『仕事を楽しんで欲しい。』『成長して欲しい。』 と、本当に考え、とった行動だ。 ただ、今の人たちを見ていると、厳しい上司よりも、優しい上司の方が、成長しやすいのかなと思う時も、多々ある。 最近の 『怒らずに諭す』 教育方針も関係していると思うけれど、あまり怒られた経験が少ないのか、上司に怒られたときの対応を見ていると、 『悔しい』 や 『見返す』 よりも、臆病になってしまう傾向が強い。 それでは、厳しくしてもしょうがない。 『いいなりになる社員』 を作ることができても、本当の意味での 『仕事ができる社員』 に育てることはできない。 もちろん、全てに優しい上司は、存在しない。 それは、 『仕事は、そんなに甘い物ではないからだ。』 今の時代、会社を維持することすら、容易なことではない。まして、会社を成長させるには、並大抵のことではない。 慣れや油断などから、すぐに、足元をすくわれてしまう。 そうならないためにも、厳しい一面が出るのは、しょうがない。 ただ、僕は、会社の一番の財産は 『人』 だと、思っている。 これは、ブログ用の自分を良い人に見せようとしている訳ではなく、純粋にそう思う。 誰も、一人で生きてはいけない。これまでも多くの人と関わってきたはずだ。 人(社員)を大事にし、人(社員)から、好かれる会社になれば、その波及効果は、大きな力になる。 人(社員)から、嫌われる会社は、悪い意味での波及効果が大きくなり、将来性が見えてこなくなってしまう場合もあると思う。 だからこそ、上司は、 部下が成長する道筋を作らなければいけない。 そのためにも、時代や人材に合わせた部下への対応を考えて行かなければならない時代だと思う。 ただ、僕がこれまで出会った中で、自分勝手に怒る理不尽な上司は、問題外として、厳しい上司が根本的な優しさを持ち、優しい(外面がいい)と思っていた上司の方が、裏の顔を持ち合わせ、部下よりも、自分のことばかり、考えている上司が多かったと思う。 これは、僕の持論だけど、 『厳しい上司は、自分にも厳しい』 し、 『優しい上司は、

食事のマナーも仕事に役立つ。

食事のマナーは、直接ではなくても、仕事に大きく関わってくると思っている。 食事のマナーは、決して難しいものではない。 食事をともにする相手に不快な思いをさせず、 ともに美味しく食事 ができるだけでいい。 本当は、箸の使い方や器の持ち方、食事のスピードなども気を使って損はないけれど、最低限、ともにする相手に不快な思いをさせないことが重要だと思っている。 しかし、人それぞれの感性があり、相手が不快に思うポイントは、違ってくる。 普段と同じように食事をしても、好ましく思ってくれる人もいれば、不快に思う人もいるので、ややこしいけれど、誰にも不快な思いをさせない食事の仕方は、そんなに難しくない。 食事を作ってくれた人に感謝し、美味しく食事をするだけだ。 僕は、動物と人との大きな違いの一つに、 『食事』 が、あると思っている。 人が食べるのは、生きるためなことは動物と同じかもしれない。 しかし、 『食事』 であって、 『エサ』 ではない。 その違いは、美味しく 『食事』 ができるかどうかと、食事を作ってくれた人への 『感謝』 の気持ちを持てるか、だと思う。 もちろん、動物も美味しい物や食べやすい物の違いは、わかり美味しい物がと不味い物が並んでいれば、美味しい物を選択するだろう。 でも、それに拘ることはない。 しかし、人は、一度美味しい物を食べると、その後も同じもの、もしくはそれ以上の 『食事』 を求めてしまう。 その 『欲求』 が、仕事のモチベーションにもつながってくる。 今以上の収入を得、今まで月に一度だった 『豪華な食事』 も、週に一度、毎日と、これまで 『豪華な食事』 だったものを当たり前の 『食事』 にしたいと思うはず。 『食事』 の喜びは、人としての楽しみの一つだと、思っている。 そして、食事のマナーとして、重要なのが 『食事』 を作ってくれた人への『感謝』の気持ちが 『ある』 か 『ない』 かだと思う。 有名なお店に行き、美味しい食事をすると、そのお料理を作った調理人が、どんな人なのか、その調理人が作った他の食事も食べてみたいと思い、 『感謝』 もすることだと思う。 しかし、もっと大事なことは、家族(親や妻など)が作った 『食事』に対しての『感謝』 の気持ちだと思っている。 普段、当たり前に食べる食

毎日、昨日の自分より、成長しよう。

日々、勉強することが大事だし、僕も毎日、何かを吸収し、自分のものにしようとしている。 但し、社会人の勉強は、子供たちのように漢字を練習したり、計算したりではない。 話題作りのために、テレビやネットを流し見するのも勉強の一貫だと思うし、話題や人気のお店に行って見るのも勉強だと思っている。 勉強を難しく考える必要はない。 もちろん、業務に関わることを調べ、自分の知識にすることは、何より優先したい勉強だ。 子供も大人も、日々、勉強し、昨日よりも一歩でも、前進しなくては、いけないのかもしれない。 生まれたての赤ちゃんも、勉強を意識していなくても、日々、何かを覚え、成長している。 ただ、学生までの勉強と、社会人になってからの勉強で大きく違うことは、 『吸収だけではいけない。』 ということだ。 学生までの勉強は、ひたすら 『吸収』 することが重要になってくる。 いつの日か、 『吸収』 した知識を使う機会を待ち、エネルギーを溜めている状態だと思う。 しかし、社会人となれば、勉強で得た知識を 『吸収』 するだけでは、いけない。 むしろ、 『吸収』 した、エネルギー(知識)を放出しなければいけない。 『吸収』 だけでは、何の役にも立たない。その知識を利用するからこそ、自分に付加価値がついてくる。 付加価値がない人は、周りから見て、どうしても物足りなく感じてしまう。 付加価値が、人としての魅力を自分に飾り付けていってくれるはずだ。 そのためにも、これまで溜めたエネルギーだけだは、すぐに使い切ってしまう。 日々、勉強し、エネルギーを随時、補給しながら進んでいくしかない。 そう考えると、 『毎日、何かを勉強しなくてはいけない。』 ということは、非常に困難なことに思ってしまうけれど、そんなに大変なことではない。 むしろ、簡単なことだ。 昨日まで知らなかったことを覚えるだけでいい。 難しいと思うと難しいことになってしまうけれど、簡単だと思えば、簡単にできてくる。 例えば、明日の天気を知ることも勉強の一環にもなるし、知識にもなる。 又、コミュニケーションを取る簡単な知識の一つであり、明日の天気を知ることでコミュニケーションを円滑に進める重要な手段にもなる。 (毎日、天気予報だけ見て、自分が成長したと思うのもあれだけど。)

週の初めは、元気よく。

多くの人は、月曜日が今週の仕事の初日になると思う。僕も同様に、今日が今週の始まりだ。 殆どの人が、自分のプライベート(人生)をより、充実させるために仕事をしていると思う。 休日に趣味などで、クタクタになるまで過ごしている人も多いことだと思う。 プライベートが充実していることは本当に良いことで、僕も憧れるし、僕も今以上にプライベートを充実させたいと思っている。 (こんなブログをしているが、僕は、仕事人間ではない。プライベート重視だ。) プライベートが充実した方が、仕事にも 『やる気』 が出るし、結果的に仕事も充実してくる。 仕事オンリーで、プライベートを犠牲にしている人で、本当に仕事ができる人は、見たことがない。中途半端にできる人は、多々いたけれど。 しかし、僕は、休日の翌日こそ、大事にしている。 休日に疲れ果ててしまうのは、しょうがない。でも、それを職場に引きずってはいけない。 多少、無理をして(空元気)でも、普段以上に元気を出すべきだ。 遊び疲れで、ボーっとするのは、問題外だ。 他人から見て、休日明けに元気が良い姿を見ると、 「この人は、仕事もプライベートも充実しているな。いいリフレッシュしたんだな。」 と、思うけれど、遊び疲れてボーっとした姿を見ると、 「プライベートを大事にするのもいいけれど。いつまでも、子供じゃないんだから。」 と、思ってしまう。 休日は、仕事をしている人、誰にでも与えられてる権利だし、人様々の過ごし方があり、それは自由だ。 ただ、僕は、休日明けに元気な姿を見せている同僚のプライベートや趣味は、気になり、どんな休日を過ごしているか聞きたくなってしまう(僕も、マネしたい)けれど、遊び疲れた姿の同僚のプライベートや趣味は、興味が湧かない。 たぶん、僕だけじゃなく、多くの人は同じ意見を持ってくれると思う。 周り(同僚)の印象は大事にしないといけない。周り(同僚)の印象次第で、自分が優位に仕事を進めることができるか?どうかが、掛かってくる。 仕事をしているからこその休日だから、休日明けには、疲れていても意識して、元気をだそう。 遊び疲れを次の日まで残すのは、本当の意味でプライベートが充実している訳ではない。 例え、疲れていても、気分がスッキリとリフレッシュでき、疲れを引きずらないことこそ、本

心が折れそうときには、どうする。

僕は、心が折れそうになることが多々ある。 本当に些細なことや、失敗が続いたりした場合、どうしても心が折れそうになってしまう。 というより、折れている。 このブログで仕事が、メンタル次第(気の持ちよう)で、変わることを散々伝えている僕の方が、本当は、誰よりもメンタルが弱いのかもしれない。 僕は、幼少期の環境からか、 『自分が認められない』 ことや 『必用とされていない』 ことに強く反発してしまう傾向がある。 自分の短所であり、治さなければいけないと何度も強く思っている。 しかし、長年付き合ってきた、この性格は、そう簡単に変えれるもではない。 手強い相手だ。 仕事上、何とか理性で抑えることができたにしても、プライベートに悪影響を及ぼし、家族に迷惑(八つ当たり)を掛けたこともある。 そんな僕を受け止めてくれる家族(特に妻)には、感謝しかない。 いつか、必ず恩返しをしなくてはと、本気で考えている。 (必ず、 有言実行 する。) そんな僕だから、心が折れそうなときは、本当に多々ある。 そんな、心が折れそうなとき、僕は抵抗はしないようにしている。 自分がダメな人間だと、しみじみと思うこともある。 なるべく頑張らずに、素直に折れる。頑張ってもしょうがない。 そこで、頑張りすぎると、心が折れたときの衝撃がより強くなってしまう。 傷は、浅い方が治りやすいと思う。 だから、簡単に心が折れたほうが、立ち直りやすいと思っている。 昔、友人に「無理せず、適当に頑張りな。」と、声を掛けたことがあった。 後日、友人から、感謝された。 僕には、その時の友人の心境は気にせず、発した言葉だったけど、その時の友人は、僕に言えない悩みがあり、自分を追い込んでいたみたいだ。 僕の適当な言葉が、友人の肩の力を抜くことに役立ったみたいだ。 心は、そんなに強くない。 心が折れそうなときに頑張っても、深いキズが残るだけ。 柳のように、風に任せて折れないように受け流すか、深く折れる前に、キズが浅く済む段階で早く折れてしまうのが必要だ。 骨折と同様(僕は、医者じゃないので噂程度だけど。)に、折れた心は強くなるし、キレイに折れれば、治りも早い。 どんどん心を折って、どんどん心を強くしよう。

仕事ができる人のマネをする。

手っ取り早く、仕事ができる人になりたければ、自分の周囲にいる、仕事ができる人のマネをとことんするに限る。 自分で、今後の行動を考える必要はなく、とても簡単なことだ。 できれば、服装や趣味まで、マネしてしまおう。 自分らしくは、同じ立場に立てた時、初めて考えることにして、取り敢えず、全てをマネすることに費やす。それが一番大事になってくる。 仕事ができる人は、無駄が非常に少ない。 『残業が人より多い。』『休日を返上して仕事をしている。』 など、周りより多くの時間を費やし、仕事をしている、 『仕事ができる人』 は、 『本当に仕事ができる人』 ではない。 自分は、仕事ができると思い込んでいる自意識過剰な少し、残念な人だ。 『本当の仕事ができる人』 は、プライベートが充実している。交友関係や話題、リフレッシュなど、プライベートが充実してこそ、仕事が楽しめる。 楽しんでする仕事には、成果が必ずついてくる。 そんな、無駄なく仕事をしている人のマネをしない手はない。 先を読んで行動( 仕事が早い?遅い? を参考に)し、事前の準備(知識も含め)を怠らない。 だからこそ、突然のトラブルが発生しても、そのトラブルさえも折り込み済みで、容易に対応できる。 そして、言動も同様に、自分のペースに持っていくための言葉遣い、行動を取っているはず。 言葉尻、会話のタイミング、その際の頷くタイミングなど、相手の気分を害せず、尚且つ、自分に引き込むテクニックが必ずあるはず。 服装や身だしなみも同様だ。 周囲に不快感を与えず、好印象を与えることが 『仕事ができる人』 になる為には、必要不可欠だ。 マネして、損することはない。 もし、完璧にマネ(コピー)できれば、同じ成果を残し、同じ立場に立つことは、誰が考えても、頷くはず。だって、同一人物(コピー)なんだから。 仕事ができる人のマネをするうちに、その人の思考までも、わかってくるはず。 最初は、意味もわからずにマネをしていた言動が、 『なぜ、そのタイミングで、その言動を行ったのか』 理由に納得できるようになってくる。 その言動の意味がわかってくれば、マネする事を意識しなくても、自然と 『仕事ができる人』 と、同様の言動が取れるようになっているはず。 しかし、誰もが、個性があって、そこまで完

仕事の人間関係に『好きか?嫌いか?』は、邪魔なだけ。

僕は、仕事での人間関係に 『好きか?嫌いか?』の選択肢 は設けていない。 仕事で関わる人は、全て『好き』がベースとなっている。 その訳は、あくまでも仕事を通しての人間関係であり、プライベートをともにすることは、滅多にないし、 『好き』 をベースにすることで、相手に興味がわき、相手のことを 『もっと知りたい。』 と、欲求が自然に湧いてくるからだ。 『もっと知りたい。』 と、思えば、 『今、何を考えているんだろう?』『本当は、何を求めているんだろう?』 と、自然と考えているはず。 気付くと、良好な人間関係が築けている。 人は誰でも、自分に好意を抱いている人を邪険にしたりすることはない。 ただし、踏み込み過ぎは、逆効果になってしまう。相手と自分の距離感を確かめることが重要になってくるけれど、決して、難しいことではない。少しづつ踏み込み、どこまでが許容範囲か確認しながら、踏み込めば良いだけ。相手が拒否するような時は、それ以上踏み込んではいけない。それだけだ。 そして、昨日 『シンプル イズ ベスト』の発想が重要だ。 の続きになるけれど、人間関係を考える時の選択肢から 『好きか?嫌いか?』 が無くなり、より、シンプルに考えることができる。 物事は、複雑に考えるより、シンプルに考えた方が絶対に良い。 特に、人間関係においては尚更だ。 相手が何を考え、何を求めているのかなど、考えながら良好な人間関係を築こうと思えば、気疲れしかしないけれど、 『好き』 をベースにすれば、自然と相手のことを知りたくなるから、そんなことを考えようと思う前に、考えているはず。 その後は、『自分にとって、メリットがある?ない?』でも、『出世する?しない?』など、何でもいい。 選択肢から 『好きか?嫌いか?』 を外し 『好き』 をベースにするだけで、余計な選択肢を殆ど排除することができる。 だから、仕事の人間関係に 『好きか?嫌いか?』 は、邪魔なだけ。 そして、 『好き』 になるのコツは、所詮、仕事の間だけだし、相手を 『好き』 になるのも仕事の一部だと思うこと。 それから、相手の悪い所を見つけたら、良い所をその倍以上探すこと。どんな人でも、良い所は必ずあるはず。(ゴミを拾っていたなど、小さなことから) 相手の良い所を探す癖をつければ、自然

『シンプル イズ ベスト』の発想が重要だ。

仕事は、『シンプル イズ ベスト』の発想が重要になってくると、僕は考えている。 世の中には、複雑なシステムで、成り立っている会社もあるけれど、一つ一つに分解すると単純な仕事を組み合わせているだけだ。 それをわざわざ、複雑に解釈する必要はない。 例えば、営業の世界であれば『売れるか?売れないか?』が、基本だ。 これは、営業の仕事に携わったことがない人でも、簡単にわかると思う。 もちろん、突然、赤の他人に『買いますか?買いませんか?』と、営業しても、10人中、10人買うことはない。 それなら、どうしたら『売れるか?売れないか?』を考えていけばいい。 例えば、 売れる→商品のデモンストレーション→商品PR→話を聞いて貰える体制づくり→信頼関係の構築→顧客訪問→訪問先のリストを作成→その商品の販売対象を知る と、順番を逆に追っていき、一つ一つの階段を上るだけで、簡単に販売することができる。 ただ、営業の仕事で、成績が上がらずに悩んでいる人の多くは、嚙み砕くことをせず、そのまま全てを並行して実行しようと考えてしまい、その複雑さについて行けず、成績を上げることができずにいる。 自分でシンプルなはずの階段を複雑にしてしまい、上ることができない階段にしてしまっているだけだ。 人はみんな、物事を考える時、幾つものことを同時に考えることはできないと思う。 コンピューターと同様に『YES・NO』の選択肢を繰り返しているだけだ。 その選択肢が多いか?少ないか?で、その人の価値が決まってくると思う。 選択肢を増やすには、多くの経験を得ることが最短だ。 だからこそ、幾つものことを複雑(並行)に考える必要はない。 一つ一つ、階段を昇ればいいだけ。 例えとして、営業の仕事を出しただけで、全ての仕事に通じることだと思う。 そして、今回、僕が一番伝えたいことは、考え方(階段)の順番(上り方)が、わからない人が対象ではない。 考え方(階段)の順番(上り方)が、わからない人は、切っ掛けがなかっただけで、すぐに階段を上ることができるようになるけれど、自分が周りより、賢いと思っている人へ、向けている。 自分が賢いと思っているほど、先を読んでいる自分に自惚れ、まるで罠を仕掛けるように複

『I LOVE YOU』をあなたなら、どう訳す?

今日、一冊の本に出合った。 『I love youの訳し方』 という、 望月竜馬さんの本だ。 まだ、読んではいないけれど、 僕が、普段、家族に向けて口に出す愛情表現は、何だろう?と、ふと考えた。 「好きだ」「愛している」は、照れくさくて、口に出すことは、できない。 そんな、僕が普段、口に出す言葉で、愛情表現に一番近いのは 「おはようさん」だと、思う。 家族が、今日一日を楽しめた感謝や、無事に過ごせた喜びの「おやすみ」ではなく、新しい朝をともに迎えることができる喜びと、今日一日、どんな楽しいことが待っているのか、家族とともに期待する 「おはようさん」が、僕の最大の愛情表現であり、 「おはようさん」が、僕なりの 『I love youの訳し方』 だ。 仕事や子供たちには、偉そうに「言葉に出さないと伝わらない。」と、言いながらも、自分は守ることができていない。ひどい話だ。 少し(かなり?)ズルい考えだけど、家族には伝わっている(伝わっていて欲しい)と、思って(期待して)いる。 僕なりの自分にとって都合の良い解釈だけれど、これは、あくまでも家族だから、通じていると信じることができるだけで、仕事では、やっぱり別で、直接、言葉にして、発しないと伝わらないと思う。 もちろん、仕事で 『 I love you』 を使う機会はないけれど。 「何かして欲しい。」「手伝って欲しい」など、直接言いづらくて、大変さをアピールしながら、目で訴えても、周りには伝わりづらい。むしろ、悪い意味で取られることが多い。 そして、一番大事だと思うのが、何か手伝って貰ったりした際の感謝の言葉だ。 恩をきせるような言葉でもなく、大げさな言葉でもなく、自分らしい飾らない 「ありがとう」 を言葉にすることが大事だと思う。 決して、表現や行動ではない。言葉にすることが大事だ。 そうすることで、周りの人達に気持ちが通じて、これからも気持ちよく、手伝ってくれたりするはずだと思う。 感謝の気持ちは、絶対に他人には伝わらない。 感謝していても、伝わら(伝え)なければ、感謝していないと同じになってしまう。 だからこそ、感謝する気持ちは、絶対に言葉にして、相手に伝えよう。 これだけでも、コミュニケーション能力は、高まっていくはずだ。 僕が、子供たちに、 よく「好き

どうせミスするなら、攻めてミスしよう。

僕は、小中高とサッカーをしてきた。サッカーは好きなスポーツの一つなんだけど、サッカーを見ていると、いつも思うことがある。 フォワードは、ミスが許されるけれど、ディフェンスは、ミスが絶対に許されない。 フォワードと、ディフェンスの緊張感は雲泥の差じゃないかと思う。 と言う僕は、フォワードだったんだけれど、緊張感もなく、サッカーをしていた訳じゃない。 (フォワードを馬鹿にしている訳ではない。フォワードもミスが絶対に許されない場面も多々ある。) ここで、言いたいのは、仕事に通じる攻めるミスと守るミスの差をわかりやすく説明したいと思い、敢えてサッカーに例えてみた。 フォワードは、シュートミスを繰り返しながら、ゴールを目指し、一度の成功(ゴール)で、勝利に導き、ヒーローになることができる。 しかし、ディフェンスは、決してミスが許されない。たった一度のミスが負けにつながってしまうからだ。 この差は、攻める(開拓)する勇気と守る(維持)する差だと思う。 新しく開拓していく(攻める)には、勇気が必要だ。 時には、失敗するとわかっていても開拓(攻める)なければいけない。 決して、失敗を恐れて開拓(攻める)ことは、できない。 それと、反対にこれまでの状況を維持する(守る)ことは、容易なことではない。 些細な変化にも気を配り、その変化に随時対応しなければいけない。 (会社の売上を維持するのにも、競合他社の価格の変動や、新規参入などに対応出来なければ淘汰されて(負け)しまう。 決して、ミスが許されない。 仕事も同様に、新しい商品開発や業務改善に勇気を持って、どんどんチャレンジするべきだと思う。 そこで犯すミスは、ミスではない。 チャレンジした勇気の証だ。 だからこそ、仕事上の攻めるミスは、どんどんするべきだと思う。 ミスを恐れて攻めることを諦めては、決して勝利することはできない。 サッカーのフォワードと同じように、数多くのミスを繰り返したとしても、たった一度の成功がチーム(会社)を勝利に導くことができるはずだから。 しかし、ディフェンスが、しっかりと守って(維持)してくれるから、攻めること(開拓)できることを忘れてはいけない。 ディフェンスに不安要素があれば、フォワードもディフェンスにまわらなければ、負けるのは、火を見

迷ったら、やってみる。

仕事でも、プライベートでも、迷う時は多々あるけれど、迷った時には、実行してみるに限る。 やらないで後悔するよりも、やって後悔する方が良いに決まっている。 「どうしようか?」迷っている時は、本心では 『やった方が良い』 と、思っているけれど、失敗やプライドなどから、 『やめた方がいいのでは』 と、本心を抑えてしまっている。 プライベートで、好きな子に告白するか。どうか。誰でも迷ってしまうと思う。 『断られるんじゃないか。』など、自分が傷付くことを恐れ、告白できずに終わってしまった経験を多くの人が持っていると思う。 しかし、告白してみないと結果はわからない。 『YES』 もあれば 『NO』 もある。 もし、 『YES』 であれば、「告白して良かった」になるけれど、 『NO』 だった場合、付き合うことはできない。 でも、次に進むこと(『ほかの子を好きになる。』『自分を磨く』など)ができる。 次に進めるのも、告白した勇気があったからだと思う。 しかし、自分が傷付くことを恐れてしまい、告白せずに終わってしまった場合、告白して失敗に終わった 『NO』 と同じで、やはり付き合うことはできないままだ。 『断られる』という、自分を傷付けるものはないかもしれない。 ただ、その分、次に進むことができずに、その場に留まってしまう。 『傷付くこと』 が、次に進む原動力となるんだと思う。 『まだ早い』 や 『タイミングが』 など、告白する勇気は捨てないまでも、躊躇してしまうの同じだと思う。 『まだ早い』 と思っても、自分の本心は 『まだ早い』 と思っていない。だから、迷ってしまう。 仮に時間が経過し、より親密になってから告白し、 『Yes』 だったとしても、 『まだ早い』 と躊躇した時に、告白していても、同じ 『YES』 の結果になっているはずだと、僕は思う。 時間の経過や、タイミング・場所によって、気分の盛り上がり方は、確かに違うかもしれないが、結果は変わらないと思っている。 もちろん、出会って、お互いのことを知らないまま、告白をしても『YES』には、ならないと思うけれど、それは、 『時間の経過が必要』 とは、別問題だ。 そもそも、出会ってすぐに告白しようと思う場合には、迷ってはいないはず。 目的が 『付き合う』 とは、別なはずだ。

誰かが『やるはず。』だから、自分は『やらなくてもいい。』

誰もが、他人任せになってしまう。 僕も、ついつい、自分がやらなくても、誰かがやるから、大丈夫だと、勝手に思い込んでしまう。 道に落ちてるゴミを拾う人は、殆どいないと思う。 行事やイベントとして、ゴミを拾うのは、ほぼ強制的なので例外として。 しかし、自分の家や部屋に落ちているゴミは、誰もが拾うはず。 その違いは、自分の テリトリー かどうかだと思う。 (大事にしているかどうかも考えられるけど、今回は敢えて テリトリー とする。) 仕事(職場)でも、同様。 誰かが『やるはず。』だから、自分は『やらなくてもいい。』と思っている内は、仕事(職場)が、自分の テリトリー ではないからだ。 会社や上司に言われるがままの仕事しかできなくて当たり前だ。 そんな仕事をしても、楽しくなるはずがない。実に、勿体ないことだ。 みんな、好き好んで仕事をしている訳ではないけれど、1日の半分近く(最低でも3分の1)を仕事に拘束される。 いくら、プライベートが充実しているとしても、仕事が嫌いで苦痛の時間であれば、3分の2充実していても3分の1は、嫌いで苦痛な時間を過ごすことになる。 やっぱり、勿体ない。 仕事を楽しくすることで、1日の全てが、楽しい日々になるのに。 仕事を楽しくするためにも、仕事(職場)を自分の テリトリー にしてしまおう。 僕は、人間も所詮、動物だと考えている。 縄張り(テリトリー) を本能が求めている。 自分の 縄張り(テリトリー) にいることで、安心できるし、本来の実力を発揮できる。 だったら、仕事(職場)を自分の 縄張り(テリトリー) にしてしまえば、安心して、本来の実力が発揮できるはずだ。 動物が 縄張り(テリトリー) を守るためには、常に巡回し、なにか変化がないか、チェックしている。 もし、なにか変化があった場合、すぐにその原因を探る。そして、解決策を講じる。 (敵が攻め込めば、自分の 縄張り(テリトリー) から、敵を追い出す。など) 仕事(職場)を自分の 縄張り(テリトリー) にするには、同じことをすれば良いだけだ。 自分の仕事(職場)の変化に常に気を配り、変化があれば、その解決策を考え、行動していく。 その変化に気付ければ、自然と仕事(職場)が自分の 縄張り(テリトリー) となり、自然