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10月, 2017の投稿を表示しています

子供と大人の違いって何?

よく、仕事やプライベートでも、 「子供じゃないんだから。」や「子供っぽい。」 など、話に出てくることがあるけれど、子供と大人の違いは何だろう? 年齢を重ね、20才になったら、大人 『成人』 に、なるけれど、それが本当の大人と子供の境目ではないと思う。 僕には、正しい境目がわからないけれど、世間で一般的には、 『自立した時(親の力を借りずに)』 が、境目にされるケースが多い様な気がする。 でも、親の力(七光り)を借りたにしても、立派に仕事をしている大人もいるし、未成年や学生であっても、親の力を借りずに立派に生活している子供?もいる。 境界線が曖昧な 『大人と子供』 だが、 「子供じゃないんだから。」 など、会話によく出てされても、受け手にとって、解釈が違ってくるだけだと思う。 受け手の解釈が違えば、本意は伝わらずに、話の無駄とまでは言わないけれど、それに近い物がある。 この、 『大人と子供』 の境界線は、絶対に定まらないし、解釈の違いは、埋まらないと思う。 それでも、構わないと思う。 僕は、僕が会話で出す 『大人と子供』 の境界線を伝え、相手に理解して貰えるように、僕が努力すれば良いだけだから。 そして、僕の解釈では、 『大人』 とは、 『守るべきもの』 ができた時だと思う。 (決して、結婚して、家族ができた時に、守るものができるわけではない。) 家族であっても、友達であっても、同僚や部下であっても、構わない。 『守られる側』 から、 『守る側』 に変わった時、人は、 『大人』 になるんだと思う。 それは、 『誰かを守りたい』 そんな思いだけでも、関係ないと思う。 いくら、 『体』 だけが大人になっても、 『誰かに守られることに安心(慣れたまま)』 では、まだまだ、子供だ。 例え、生活が自立しているにしても、人に頼ってばかりでは、子供だと思う。 僕は、せめて家族には頼られ存在になりたいと思う。 そのために、自分を犠牲にするという訳ではない。 もちろん、時には、自分を犠牲にする場合もあるかも知れないが、それ以上の何かを見つけた時、 『本当の大人』 になるんだと、僕は、思っている。 それは、人によって違うと思う。家族の笑顔だったり、裕福な生活だったりするかもしれない。 『守りたい』 という、思いと、自分

上司がいない時に、見えてくるもの。

今日は、上司の休日だった。そんな時だからこそ、見えてくるものがあった。 同僚の中でも、仕事ができる方だと思っていた人がいる。 これまで、新しい仕事に慣れるため、仕事の仕方を重視して見ていたため、同僚の行動、考え方は重要視しておらず、人物像の見極めを怠っていた。 最近は、余裕もできてきて、同僚の人物像を観察し始めて、行動に疑問符がつくケースが多々、見受けられるようになった。 それが、今日、直属の上司が休日で、不在にしていた時の行動を見て、確信した。 『ダメだ。結局、仕事のできない人だった。』 と。 ちょっとは、仕事ができる人と思った、自分がまだまだ、人を見る目は、なかったと、ガッカリしてしまった。 朝、出社は遅い(いつもと比べて、かなり)。 自分でできることも、上司気分でせずに他人に任せる。 そのくせ、責任感があるわけでなく、自分の担当する仕事を優先し、同僚から、協力してもらいながらも、他の同僚がしている仕事には、手を貸さずに上司気取りで口だけ出す。 僕の中で、その同僚の評価は、音を立てて、落ちて行った。 こんな風に、普段とは違う環境になった時、行動や態度が、どう変わるかで、その人の本来の姿が見えてくる。 普段、上司の前では、キレイごとを言っている人が、上司がいない時に、ココぞとばかり態度や行動を変える人は、案外多い。 そんな人を見ると、僕は、 『くだらない人間』 に関わりたくないと思ってしまう。 それとは、正反対に、リーダーシップを取れる人もいる。 上司面ではなく、周りを見て、今、自分が何をすべきか、そして、適材適所を考え、上司のように 指示ではなく、さりげなく適材適所になるよう、誘導できる、 人もいる。 そんな行動ができる人は、いずれ人の上に立てる候補だ。 適材適所への配置は、決して難しい物ではない。 誰でも、同僚の普段の行動を見ていると、何が得意で、何が苦手かは、上司以上に自然とわかっているからだ。 しかし、ここで配置を指示すると、同僚からの反感を買ってしまう。 そこで、さりげなく、誘導できる人は、やはり優秀だ。 僕も、そうなりたいと日々思っている。 しかし、今の同僚にそんな人物はいない。 そろそろ、僕も 『爪を隠している』 場合では、なくなってきた。 権力争いに疲れて

責任が重くて、つらい。

昨日、責任感についてのブログを書いている際、適した画像は、ないか検索していた時、責任感に押しつぶされそうな画像を見つけ、責任感があることは、良いことだけど、責任感に押しつぶされそうになっては、本末転倒だと思う。 今日は、昨日の続きみたいなものだ。 昨日のブログ『プロ意識を持つだけで、責任感が身につく。』 僕は、 責任感を楽しんで欲しい と考えている。 『責任』 は、確かに重いけれど、決して、一人で抱えるものではない。 真面目な人ほど、 『責任』 を一人で抱え込んでしまいやすいけれど、それは間違いだ。 一人で何もかもしようと思っても、できることに限界はある。自分の限界に近づけば近づくほど、プレッシャーとなり、ストレスがたまる一方になってしまう。 以前書いた『 ストレスをプラスにする。 』 どころではなくなってしまう。 もっと、仲間や同僚を信用して、任せていこう。 一人で、抱え込んでしまうのは、極論かも知れないが、仲間や同僚を信用していないと同じことだ。 もちろん、信用できない場合もあるかも知れない。しかし、信用できないと思う時は、危険信号が点滅している。 プレッシャーに負けかかっている証拠だ。 そんな時は、ひと呼吸おいてから、なぜ、信用できないのか理由を探ろう。 「まだ、未熟なのか?できるけど、やらないのか?」 など、自分がなぜ信用できないと思うのかをしろう。 ここで、 信用できないから、自分でやった方が早い。正確だ。などと、自惚れて、仕事を取り返してしまってはいけない。 信用できない理由がわかれば、改善策が見えてくる。 例えば、 『未熟』 であれば、経験をつませ、成熟させる。もし、時間的な余裕がなければ、任せながらも、重要なポイントに差し掛かった時に手を貸す。得意なことを任せる。など考えられるし、 やる気がないのであれば、 『なぜ、やる気がないのか?』 理由を探れば、「本当は別の仕事をしたい。僻んでいる。信用されてないことに気付いている。」など、原因があり、それを取り除くことで、今まで以上の力になってくれるはず。 仕事は、決して一人で行うものではない。 『何でもできて、他に変わりがいない人』 は、 『仕事ができる人』 ではない。 むしろ、自惚れているだけで、 「仕事が中途半端にしかできない人。」 だ。 (芸

プロ意識を持つだけで、責任感が身につく。

僕の中で、仕事に対する責任感は、その人の仕事の能力を見るうえで、非常に重要な位置にある。 特に、新しい仕事を始めた今は、自分より、社歴が長い人ばかりだが、 「この人は、どんな仕事をしているのか?何に長けているのか?責任感はあるのか?」 を勝手に判断し、僕が今後、成長していくためには、誰のどの部分を真似をすればいいのか。同僚の良いとこ取りをしていきたいと考えている。 『 責任感のある人』 が、見本であれば、段取りよく仕事を進め、極力無駄なことをしないので、追いつくまでは、取り敢えず見本にして、真似をして行こうと思う。 しかし、 『責任感のない人』 の場合、一部の仕事の技術はあるにしても、真似するほどでは、ない場合が多い。 傍から見ても、段取りが悪かったり、本当は何がしたいのかわからない場合が多い。 一部の長けている所だけ、真似をして、その仕事の本来の最終目標を考えながら、自分なりの改善点を探して行く。 一部の仕事を真似するだけなので、追いつくのは容易い。 なぜ、 『責任感のある・なし』 だけで、 『見本にする場合と、それに値しない場合』 の違いができるのかは、明確だ。 『責任感のある人』 は、大抵、視野が広い。 そのため、同じ仕事をする場合でも、周りの人の状況、時間的制限、並行して進めている仕事の内容などによって、仕事の仕方が変化している。 だからこそ、段取りよく仕事を進めている。 反対に 『責任感のない人』 の場合、仕事に変化がない。現状を把握しようとせず、その仕事を終わらせることだけに夢中になっている。 そのため、いつもと違う流れになると、戸惑ったり、ミスを多発してしまったりする。 (それは、それで反面教師には、なるけれど。) そう考えると、仕事において、 『責任感』 は、あるに越したことはない。 なら、 『責任感』 を持つために必要なことは、なんだろう? 僕は、決して難しいことではないと思う。 『プロ意識』 を持つ。これが、最初の切っ掛けになる。 プロと聞くと、スポーツ選手やミュージシャンを思い浮かぶけど、仕事をして、お金を貰っている以上、誰もが、その仕事のプロだ。 アルバイトやパート、正社員など、関係ない。プロはプロだ。アマチュアではない。 そう考えると、スポーツ選手やミュージシャンと同様に、観

コミュニケーションが苦手な人はウソをつけ。

小さいころ、 『ウソ』 をついては、いけないと、よく言われた。 確かに人を騙す 『ウソ』 は、いけない。 しかし、 『ウソ』 のない世界は、窮屈で住みづらい世界になってしまう。 『ウソ』 を今まで、一度もついたことがない人と僕は、合ったことがない。 ( 『ウソ』 をついたことがないか、確認した訳ではないが、100%の人がウソをついたことがあると思う。) 例えば、子供の頃なら、学校に行きたくなくて 「頭が痛いから、学校に行けない。」 や、大人になってからでも、 太っている人に「太ってなんかないよ。」 など、屁理屈に近いけれど、全ての人が 『ウソ』 をついているはず。 それならば、ついて 『いいウソ』 と 『悪いウソ』 の違いは、何だろう。 相手を思いやってつく 『ウソ』 は、 『いいウソ』 。 相手が不快にさせてしまうのは 『悪いウソ』 。 の、簡単な線引きができると思うけれど、相手によって線の位置が微妙に違っていて、コミュニケーションを苦手とする人にとっては、難しい時もある。 『ウソ』の加減がわからないから、コミュニケーションが苦手なんだと思う。 『ウソ』 をつくことが不慣れな人は、先ず、すぐにばれる 『ウソ』 をつけ。 そして、その 『ウソ』 がバレた時に相手が笑ってくれたり、感謝してくれるような 『ウソ』 を。 バレることが前提で 『ウソ』 をつくなら、その後の展開が比較的にわかりやすい。 相手を思いやってつく 『ウソ』 は、 『いいウソ』 であっても、加減がわかりづらく、人によっては、不快な気持ちにさせてしまう。 例えば、太っている人に 「太ってなんかないよ。」 と、言った時、相手の気持ち次第で、「 思いやってくれてありがとう。」 と思う場合もあれば、 「本当は太っていると思っているくせに。」 など、 『悪いウソ』 に取られてしまう場合もある。 でも、 『ウソ』 がバレる前提であれば、 「太ってなんかないよ。でも、もう少し痩せたら、もっと魅力的になれよ。」 など(上手い例文じゃないかも)、 『でも』 の、時点で 『ウソ』 をついていることがバレる前提での会話になる。 そうすることで、相手に不快な思いをさせてしまっても、後に引きずらずに、その時点で対応できる。 ( 『でも』 ってことは、太っている

自己保身は、本当に自己保身になる?

僕は、ならないと思う。 今日、取引先とのトラブルがあり、その際、取引先がとった言動が、あまりにも自己保身に走りすぎて、僕もイライラしてしまい、 『愚痴おやじ』 の名前のまま、本当の愚痴です。 こちらにも非があり、会社間のトラブルだから、なるべく穏便に済ませたいと思いながらも、「自分は悪くない」の一点張りの対応をされ、僕も冷静さを失って、感情に任せてしまい、まだまだ、子供だと反省している。 でも、正直ムカついた。 そんなことから、時間が経過し、冷静になった時、 『自己保身』 に走る人は、よくいるけれど、結局は 「自分を本当に守れているんだろうか?」 と疑問に思った。 僕は、そう思わない。 自分に都合の良い解釈で話をされても、誰も納得いかない。その時、僕みたいな自己が強い人ではない時は、相手を言いくるめてしまうこともできるだろう。 でも、それは、本当の解決ではないと僕は思う。 目につかないように隠しただけじゃないかと。 隠したものは、いつか見つかる。その時、また、その上に何かを掛け、さらに奥深くに隠すしかない。 本来、早い段階で、解決策を見出すことで、傷は浅くて済み、治すことも容易にできる、はずなのに、隠してしまうことで、見える傷はなくても、見えないところで傷は、手に負えなくなってしまう。 隠しごとを最後まで貫けるなら、いいけど(ウソも突き通せば本当になる。みたいに)大抵はバレる。 隠し事がバレた時、浅くて済むはずだったのが、深い傷になっていて取り返しつかないことになってしまうんじゃないかと思う。 そうすると、 『自己保身』 のために、取った言動が、実は 『自分を追い込んでしまっている』 んじゃないかと思う。 人は誰しも、間違いやミスを犯してしまう。 その際に、取る行動がこれからに大きく左右して、成長することもあれば、退化してしまうこともあると思う。 特に、自己保身は、第三者から見れば、ハッキリとわかるし、自分の価値を落としているだけだと思う。 だから、『自己保身』は、自分を守っていない。 その場を繕って、隠しているだけでしかない。 本当に自分を守りたければ、自分に非がなくても、反省し、解決策(トラブルの回避策)を見出すことで成長し、強くなるからこそ、自分を守ることができる。 以前、 人のせい

「すみません。」が、口癖になってない?

僕の同僚に、 「すみません。」 が、口癖の人がいる。 これまで出会った人の中にも「すみせん。」が、口癖の人は、案外多かった。 何かを貰っても、用事があって声を掛ける時も、そして、怒られても、いつでも「すみません。」 「すみません。」が、口癖の人は、大体、気が弱く、自分に自信を持てない人に多いと思う。 気持ちは、わからなくはないけれど、「すみません。」が口癖になってしまうと、気分が滅入ってしまうんじゃないかと心配になってしまう。 実際、暗くなっている人が多い。 これまでの僕の部下にも、現在の同僚にも、悪いことをしたわけじゃないから、「すみません。」ではなく、 「ありがとう。」 に言い換えた方が良いよと伝えている。 (間違いや失敗した時も、教えてくれて「ありがとう。」の意味で「ありがとう。」で、いいと思う。) そうすることで、気分も明るくなるし、相手にも良い印象を与えるから、「ありがとう。」を意識して使うように進めるけれど、そんな話を聞いた後にも、「すみません。」の一言が。 あ~、やっぱり、重症の人が多い。 意識するだけでも、最初の一歩 にはなる。自分で、「すみません。」が、口癖だと思ったら、「ありがとう。」に、言い換えようと思うことから、始めよう。 そして、次に自分の得 意なこと、長所を伸ばそう。 苦手なことを無くして、自分に自信が持てるようになれば、自然と「ありがとう。」が、口癖になっているとは思うけど、苦手なことや短所を改善していくことは、簡単なことではない。 しかし、自分の得意なこと、長所を伸ばすことは決して難しいことではない。 積極的に得意なことを行い、経験を積むことで、さらに磨きがかかる。 最初は、一部分かも知れないけれど、周りから頼りにされると、『 自分に自信がついてくる』 自信がついてくると、今まで苦手にしていたことにもチャレンジしたくなり、益々 『自分に自信がついてくる』 そんな良いスパイラルにハマると良いんだけれど。 しかし、仕事を選ぶことができずに、苦手なことばかり、やらなければいけない時もある。 そんな時には、毎日、本当に小さな目標を持つべき。 今の自分が少し、ちょっと、背伸びするだけで、達成できる、本当に小さな目標を。 毎日、毎日、自分が一歩ずつ進んでいる実感を得ることで、

掃除は、仕事に入りますか?

今日、ふと掃除は仕事に入るのだろうか?と、疑問に思い、考えてみたら、案外難しく、結局、僕が出した答えは、 「その時、次第。」 と、曖昧な答えしか見つからなかった。 僕なり考え方として、仕事、本来の利益を生み出すかどうか?で、考えると掃除は直接、利益を上げるのではなく、補助的な存在であり、仕事ではなく、作業の一部でしかないと思う。 (掃除が本来の仕事という、職種は別として) 店舗営業をしている業種で考えて見ても、 『 掃除がされているから、物が売れる訳ではなく、店内や商品が、汚れていても売れる。しかし、店内、商品がキレイであれば、もっと売れるかもしれない。』 店舗ではなく、事務所内であれば、掃除されている社内であれば、 『気持ち良く仕事ができ、仕事の効率が良くなるかもしれない。』 と、考えると間接的ではあるけれど、利益に結びついてくるから、仕事の一部になるはずだと思う。 掃除は、 『仕事』 と 『作業』 の両方に位置する、特別な存在だと思う。 なぜ、そんな疑問が思い浮かんだのかというと、同僚の仕事姿を見た時だ。 『ある同僚は、掃除が丁寧でとても綺麗にするけれど、時間を掛け過ぎるし、また、ある同僚は、やる気がなくダラダラ、急な仕事を見つけ、掃除を途中で投げ出してしまった。』 僕は、掃除は丁寧にするべきだと思うけれど、本来の仕事ではないから、時間を掛け過ぎるべきではないと思う。 しかし、周りが掃除をしている時に逃げるように、仕事を無理矢理に見つけるのも、どうかと思う。 前者は、 『掃除は仕事』 。後者は、『 掃除は仕事じゃない』 。と、考えているんじゃないかと思ったからだ。 果たして、どちらが正しいんだろう? 結局、僕の答えは、 『仕事であり、仕事じゃない。から、その時、次第』 の曖昧な答えになってしまった。 掃除は、曖昧な答えだから、曖昧な対応が求められる、難しい存在だ。 みんななら、どう考え、どんな答えを出すんだろう。 僕の中では、曖昧なままで少し、気持ちが悪い。 誰か、納得できる答えを教えて欲しい。 でも、掃除をする時間は、間接的にではあれ、利益を左右するものであるから、給与には、反映されるべきだと思う。 と、言うことは、僕の答えは 『仕事』 に入るのかな。

朝からピンチ!

今日は、朝からピンチで、始まった。 アラームが鳴らず、妻から、 「起きなくて、大丈夫?」 の、声で目が覚めた。 寝坊だ。いつもより、30分以上遅く、目が覚めた。 しかし、こんな時は、いつもより案外上手くいく。 いつもは、ダラダラして、中々目が覚めず、ボーッとしている時間があるけど、今日は全くなし。 妻の声を聴いた瞬間から、全開で目が覚め、意識もハッキリしていた。 何だかんだで、いつもと、ほぼ同じ時間に家をでることができた。 僕の場合、こんな日は、決まって順調に行くことが多い。 朝から、集中力が高まっているからかもしれないが、いつもより、感が冴え、普段見逃すようなことまで、見つけることができる。 今日の僕は、正しくそうだった。 朝の 『あの一瞬』 以外は、全てが順調に進んだ。 『ピンチの後は、チャンスあり。』 は、やっぱり本当だ。 本当に、今日はいい日だった。(台風を除けば) こんなことなら、毎日、寝坊すれば良いのかもしれないけれど、あの 『ヤバい』 という、緊張感は、そう簡単に真似できない。 それが、できれば毎日が順調なのに・・・。

イメージトレーニングは、どんな仕事でも必要。

僕は、子供達に、 「人には、みんな超能力があるんだ。」 と、よく話をしていた。 もちろん、スプーンやフォークを曲げるとかではない。 「自分が想像できることは、必ずできる。なんでも、 『できない。』 じゃなく、 『できる』 と思いなさい。」と。 そして、子供達への宿題として 「毎日、明日の楽しみ、したいこと。」 を考えてから寝るよう、約束をしていた。 寝る前に、話を聞いてから「おやすみ」が、日課だった。 明日をワクワクして、迎えて欲しいと考えたからだ。 小さかった頃は、通じていたが、最近は、どうだろう。超能力なんてと、馬鹿にされるかもしれない。 でも、今でも、僕は、そう信じている。 人には、予知能力があると。 仕事でも、同様だ。自分が描く、『 将来』『ポジション』『仕事のあり方』 など、想像できないことは、実現しない。 しかい、想像できることは、必ず実現できると信じている。 もちろん、 『タイムマシーン』 や 『どこでもドア』 など、想像できても、中々、実現できないこともある。 想像を実現するためには 、どれだけ 『リアル』 に想像できるかだ。 『タイムマシーン』 や 『どこでもドア』 を使用している自分をリアルに想像できるだろうか。 アニメの中のタイムマシーンやどこでもドアを使用しているだけじゃないだろうか。 そこには、あったらいいな。できたらいいな。程度にしか思っていないからだと思う。 仕事で、イメージトレーニングする時は、 できるだけリアル に行う必要がある。 例えば、明日の折衝が上手くいったらいいな。だけでは、どうなるかはわからない。 しかし、イメージの中で、相手を想像し、実際の会話の流れも想像していく。 結果、 成功に終わるイメージ をリアルに想像できたなら、きっと 成功に終わる はずだ。 できれば、途中で相手の機嫌を損ねた。準備すべきものが足りなかった。など、単に上手くいくだけではなく、実際に起こり得るトラブルも含め、よりリアルに想像するべきだ。 そうすることで、トラブルを未然に防ぐことや迅速な対応ができるようになり、イメージ通りに進む可能性が高くなる。 僕は、 何事も経験ほど重要 なことはないと思っている。 その経験をイメージトレーニングすることで、一度に数倍積むことができ、人より

仕事が合わない。

自分が、本当にやりたかった仕事に就き、実際の仕事内容も充実して、全てが納得、満足している人は、極僅かじゃないだろうか。 みんな、それぞれ、給与・待遇・仕事内容・人間関係などの悩みが必ずあり、それでも仕事を続けていると思う。 もちろん、僕にも悩みはある。今現在の給与も、以前の仕事をしていた時の3分の1位で、家族にも申し訳ないと、日々感じている。 しかし、僕の場合、色々な事情があり、今の仕事を投げ出すわけにはいかない。 以前、僕の友人がプロのスポーツ選手になったことがある。 その友人は、同じスポーツをしている僕たちとは、次元が違い(別格)で、プロへ転向する話を聞いた時、僕を含め、周りのみんなも納得したほどだった。 友人もその競技が本当に好きだった。 しかし、友人がプロに転向してから、1・2年したころ、友人が悩み始めた。 最初は、趣味の延長でお金を稼ぐこともでき、天職と感じていたはずが、次第にプロのスポーツ選手として、スポンサーから、結果を求められるプレッシャーが原因だった。 元々、自由気ままな友人にとって、自分が乗り気になれない大会にでること自体、楽しいことではなかった。 しかし、多額のスポンサー料を貰うからには、スポンサーの期待や意向に沿わなければいけない。 好きだったはずのスポーツが、嫌いになってしまった。 どうしても、その二つの狭間で悩み続け、結果、僕の友人は、プロを捨てた。 僕は、彼らしいと思った。そして、以前の自由きままな友人に戻り、ホッとした。 本当は、彼を叱咤激励して、プロの道を極めるように後押しするべきだったのかもしれない。 しかし、僕は、友人と一緒に遊びで、そのスポーツをしに行った時、 「愚痴おやじは、いいよな。楽しそうで。趣味のままの方がよかった。」 と、ふと口にした。 20年以上たった今でも、忘れられない言葉だ。 だからこそ、友人には、得意なスポーツを心底、楽しんで欲しいと思ったし、一緒に楽しみたいと思った。 そんなことがあり、僕は、友人の決断に納得した。 今でも、友人は、そのスポーツを楽しんでいる。最近は年齢が年齢なのであれだが、ちょっと前までは、友人を知らない人もレベルの違いを感じたはずだ。 楽しみながら、自由にプレイする友人は、プロの肩書がなくても、輝き、人の目をひいた。

努力は、過去形。そして、第三者が使う誉め言葉。

僕は、 『努力』 は、現在進行形ではなく、過去形だと考えている。 そして、自分への評価ではなく、他人からの評価だと思う。 『努力しているのに』 と、自分自身で感じるときは、心が負けそうになっている時だ。 そんな時は、まだまだ道は長い。先が見えなく、このまま頑張っていいのかわからなくなり、迷っている証だ。 一度、立ち止まって、自分が歩んできた道、スタート・ゴール。そして、自分の現在の位置を確認しよう。 スタートからゴールへ向かう道は、最短距離でなくて構わない。険しく、辛い最短距離でも、なだらか遠回りの道でもゴールへ辿り着くことに変わりはない。 そして、現在の自分の位置を確認しよう。自分の位置を知らなければ、迷って当然だ。 そのまま進んでも、遭難してしまう。 山で遭難した時も仕事も同様だ。 迷った時には、立ち止まり、無駄に体力を使わず、冷静な判断が求められる。 だからこそ、 『努力しているのに』 と感じたら、一度立ち止まり、自分が歩んできた道、スタート・ゴール。そして、自分の現在の位置を確認することが大事だと思う。 だからこそ、 『努力』 が頭を過る時は、まだ道半ばだ。 道半ばでは、 『努力』 ではない。 『努力中』 だ。 『努力中』 を 『努力』 とは言わない。 ゴールしてこそ、 『努力』 したと言える。 ゴールにできなければ、 『無駄な努力』 になってしまう。 実際には、ゴールできなくても、その経験が知識になり、次に進む道への糧になる。 僕は、 『無駄な努力』 は、無いと考えている。 そして、ゴールに辿り着いた人は、ゴールした喜びや達成感で、自分が 『努力』 したとは、感じない。 例え、険しく、長い道だっとしても、 「夢中で取組み、気付いたら、ゴールしていた。」 と、思うはず。 自分自身で 『努力』 した結果が、ゴールに辿り着いたとは、思わないと思う。 しかし、第三者は、ゴールした人への 『賞賛』 や 『羨望』 として、 『努力』 という言葉を使う。 時々、 「努力はしているのに」 など、マイナス的な言葉もあるが、それでも、決して、その人を馬鹿にしては、使わない。 その人のことを認め、 『応援』 している時に出てくる言葉だ。 だから、僕は、道半ばでも 『努力』 という言葉を使ってもいいのは、第三者だ

先が見えなくなったら。

昨日のストレスについての、僕なりの思いを書いて、僕がどん底から、立ち上がった切っ掛けをどうしても伝えたくなった。 僕は、プライベートと仕事(特にプライベート)で、自分自身を見失い、自暴自棄に陥った時がある。 以前、不幸関連(仏事)の仕事をしていた時がある。 その時はまだ若く、お客様から、知識の少なさや見た目(若かったので)から、信用されにくく、営業の仕事が上手くいってなかった。 営業は、結果が全てなので、結果がでない営業マンに居場所はない。 かろうじて首になりはしなかったが、上司や先輩のプレッシャーは半端なかった。 そんな時に親友を立て続けに亡くし(交通事故・突然死)僕が人の死を商売にしているから、親友が死んでしまったのではないかと考えるようになり、沈んでいってしまった。 そんな自暴自棄に陥り、何事も暗く考える僕に愛想をつかし、当時、付き合っていた彼女とも距離が開いて行ってしまった。 真剣に僕のことを考え、そばに寄り添ってくれる彼女に甘えて、愚痴ばかり言ってしまった。 聞く耳も持たずに、どこにも出かける気もなく、愛想をつかすのは当たり前だと思う。 とにかく、暗くなり過ぎた。が、当時の僕にわかることもなく、 「全てが奪われてしまった」 と思い、 「僕はこの世にいるだけで、周りを不幸にする。なら、一人で誰にも関わりたくない。」 と、考えるようになってしまった。 幼少期の家庭環境も恵まれず、実の親ですら信用できなくなった時期もあり、余計にそう考えてしまったのかも知れない。 今となっては、笑い話だが、当時は真剣にそう考えた。 暗い話は、ここまでにして、そこから僕が立ち直った切っ掛けは、大したことではない。 そんな自暴自棄だから、当然、寝ることもできなくなっていた。 「寝よう。寝なきゃだめだ。」 と、思えば思うほど、眠れない。 部屋の電気を点けたり、消したりを繰り返していた。 電気を消した暗い部屋で、さっきまで点いていた電気の残像が見えた。 普段は何も感じないことかも知れないけれど、僕には、 『希望の光』 に見えた。 自分でも何とかしなきゃと考えていたのかもしれないが、 『たとえ、今は真っ暗でも、進めば明かりが待っている』 と、思い、ここで立ち止まるんではなく、前に進もうと思えた。 こんな、どうでもいい切っ掛けが

ストレスをプラスにする。

今の社会で、ストレスを抱えていない人は、ほとんど、いないと思う。 ストレスが溜まると、イライラしたり、精神的に落ち込んだり、決していいものではない。 しかし、ほぼ全ての人が抱えているストレスだからこそ、うまく付き合うべきじゃないかと思う。 ストレスが全くないのは、本当にいいことだろうか? たぶん違うと思う。 例えば、お腹が空いた時に、好きなものを好きなだけ食べれば満足はするし、空腹を我慢するストレスから、解放されるだろう。 しかし、そんな生活を送ってしまうと、過度に太ってしまい、今度は自由に動けなかったり、体系が気になってくる。それもストレスになってしまう。 どうせ、なくなることのないストレスなら、上手に付き合い、心身に影響をきたさないようにして行くのがいいと思う。 『ディズニーランドで待ち時間が長く、ストレスが溜まってくる。』 『しかし、楽しみにしていたアトラクションで気分がスッキリする。』 『結果、「長い時間、待った甲斐があった。」になり、ストレスを感じた分だけ、楽しさが倍増した。』 こんな風に、 『今のストレスは、未来の楽しみや喜びになる。』 と、考える癖をつけるようにしたら、ストレスと上手く付き合うきっかけになるはず。 自身の過去の実体験から、 『我慢』→『成功・喜び』 を思い出すと、もっとリアルに未来が見えてきて、ストレスもプラスに転換してくる。 仕事でのストレスも同じように、 『今』 だけを見てしまうと、辛く、苦しいストレスになってしまうけど、将来、未来を見通せば、ストレスも軽減されてくる。 もちろん、こんな楽観的なストレスだけであれば、みんな苦労はしないと思うけど、僕は将来、未来を見る癖をつけて欲しいと思っている。 ストレスをプラスに考える癖が身についていると、ほんのわずかな希望だったとしても、探し出すことができ、そこから、希望を大きく出来る。 希望が大きくなってくると、ストレスが必ず小さくなるはず。 ただ、深刻なストレスが溜まり、わずかな希望すら見えなくなってしまう時もある。 本やネットで、ストレス発散方法も調べる気すら起きず、どうしようもなくなってしまう。 周りが「一人で抱えるな。」など、温かい声をかけてくれても、耳に入らない。 そんな時は、ストレスから、逃げてしまおう。 自分よ

社内のいじめに悩んでもしょうがない。

大人も子供も、いじめの問題がよく取りざたされるが、僕は、 『いじめは必ずあるものだ』 と、認めることから始めないと、いけないと思う。 特に、小中学校や高校のいじめ問題は、そう思う。 学校として、どうしても立場上なのか、 『うちの学校では、いじめはない』 が前提だから、 小さないじめの火種を見落としてしまう。 最初は、些細なことから、次第にエスカレートしていってしまう。 結果、大きな問題になって、初めていじめの有無を確認する。これでは、後手後手だ。 僕は、人は、3人集めれば、必ず1対2になり、深刻度合いは別にして、いじめは発生していると考えている。 だからこそ、いじめは必ずあるものだと考え、注視すれば、まだ小さな火種に気付くことができるはず。しかし、いじめは、ないと思えば、注視しているようでも、火種が大きく(もう火種ではない)ならないと気付くことができない。 僕は、学校の先生から、 「うちの学校は、いじめはあります。しかし、大きくなる前に対応するよう努めています。」 など、認める発言がでる学校を信用したいと思う。 しかし、大人のいじめ(会社内)は、上司が解決してはくれない。 自分で解決していくしかない。 大人のいじめは、主に 『仕事の対応力(能力)の差』 が、原因だと思う。 プライベートを共にする機会が少ないので、好き嫌いや合う合わないでのいじめは、あるにしても、くだらなくて、気にするだけで損をしてしまう。 気にせず、仕事で成果をだしていけば、いじめがあったにしても、自分にとって、いじめられているとは感じないはず。 むしろ、 『なんかくだらないことをしているな』 程度で流せるはず。 しかし、仕事の対応力(能力)の差が原因の場合、対応が難しくなってくる。 相手が、 『自分の方が仕事ができる』 と思えば、 『馬鹿にしたり』 、 『貶したり』 し、 『自分が劣っていると』 と思えば、 『妬み』 や 『僻み』 が生まれてくる。 深刻なのは、そこから生まれるいじめは、無理難題を押し付けられたり、足を引っ張ったりと、仕事に影響してくる。 大抵、いじめられる人が損をするようになってしまう。 僕には、正しい解決策は見いだせないが、性格的な問題もあるけれど、僕は直接、 「くだらない」 と、言ってしまう。 相手が、年上だろうが、立場が

忙しいと誰もが余裕がなくなる。

今日は、一日、慌ただしく過ごしてしまった。 ただ、比較的頭を使うことはなく、ただただバタバタしていたので、先週の仕事を振り返ることもできたし、今週の予定も確認しながらできたので、明日からは、段取りよく進めることができそうだ。 しかし、慌ただしくしていると、悪魔が近づいてくる。 ちょっと、自分が想定していたより、時間(5分程度でも)が過ぎるだけでイライラしてきたり、他人の態度も悪く見えてきて、それでもイライラしてしまう。 何とか今日は、人にも物にも当たることなく過ごしたが、この慌ただしさに頭も使ってきていたら、どうなっていたかわからない。いや、間違いなく誰かにあたっていたと思う。 ただ、自分を正当化するわけではないけど、誰もが忙しくなると視野が狭くなってしまい、 『なんで、自分だけが』 と考えがちになってしまうと思う。 自分だけが大変で、周りはみんな楽をしているんじゃないかと疑心暗鬼に陥りやすい。 余裕がなくなると、誰しも陥る悪魔が仕掛けた罠だと思う。 悪魔に対抗するのは、非常に大変だ。 頭で、誰も悪くないと思っても、悪く見えてしまうし、理屈じゃなく本能を刺激してくる。 そんな時に僕は、他人を見ないようにしている。そして、自分が休憩をしている時に他人を見て、 『自分には、休んでいる余裕がまだある。周りはもっと忙しい』 と、思い込むようにしている。 悪魔に取りつかれている時は、100%色眼鏡でしか見ることができない。 そんな時に、他人と自分を比べてもしょうがない。 自分の価値を落としてしまうだけ。 そして、目の前の今だけじゃなく、先を見たり、プラスに考えるようにしている。 『今、ここで踏ん張れば、ビールが飲める。』 や 『これを出来るのは僕だけだ。』 などだ。 そうすると、少しは、悪魔に勝てる可能性がでてくる。 それでも、悪魔の方が強い時には、諦めよう。 『自分は、まだまだ器が小さい。』 と、認めて、自分に余裕ができた時にあたってしまった人や物に恩返しをしよう。 僕は、誰でも限界があり、イライラして、他人に嫌な思いをさせてしまう時は必ずあると思う。 しかし、そのことを忘れずに、なるべく早く返すことで、これまでの関係を保てるように努力できるか、できないかだと思う。 素直に 『あの時は八つ当たりしてゴメン』

仕事中の休憩は、重要。

僕は、休憩(息抜き)は非常に大事な存在だと思う。 よっぽど好きなことを時間(納期)に関係なく、するのであれば、時間を忘れて『集中』することもできるが、仕事では、そうはいかない。 納期も迫るし、品質やサービスにも、ある程度のレベルを必要とされる。 気持ちに余裕があれば、集中して仕事に打ち込むことができるが、集中力は長くは続かない。 1時間も集中すれば、誰でも一息つきたくなるものだ。 集中力が切れかかった時に無理して仕事をしても碌なことにはならない。 つい、『うっかりミス』につながってしまう。 そのミスを取り戻すのにかかる時間を考えたら、休憩をしっかりと取ることが大事だ。 真面目な人ほど、忙しい時に休憩を取ることを後ろめたく感じて、無理をしてしまう。 休憩を取りづらい環境を作っている会社にも、もちろん問題はあるが、自ら積極的に休憩を取り入れるべきだ。 休憩が取りづらい環境の会社は、たいていは、上司が『机上の空論』だけで、現場を知らなさすぎるからだと思う。 しかし、机の上だけで仕事を知っていると思っている上司には、結果(成果)を突きつけてしまえばいい。 悪い結果(休憩なしでミスが多い)などは、そういうタイプの上司には通用しない。難癖をつけられるのがおちだ。 最初は、グチグチ言われるかもしれないが自ら休憩を取り、今までの成果より、上の成果をだしていけばいい。 簡単に成果が上がるなら誰も苦労はしないかもしれないが、同じ内容を休憩なしで行っていた以上の成果は必ず出るはず。 ただし、仕事中にダラダラとしていて、さらに休憩では成果は間違いなく下がるし、世間話をするための休憩は、体力勝負の仕事をしている人が体を休める為が目的でなければ、同じく成果は変わらない。 僕の場合、休憩(作業を止めて)をしながら、これまでを振り替えり、忘れていることや見落としがないか確認したり、並行で進めている仕事へいつから切り替えるか考えたりしている。 作業を行いながらでも、ある程度のことは並行して考えることがはできるが、どうしてもミスにつなっがってしまいやすい。 だから、必ず作業を止めて(手を止めて)考えるための休憩を取り入れている。 同じミスを犯したにしても、休憩時に振り返った時に気付くことができれば、終わり間近に気付くより、取り戻すのは早い。作業

先を読む力をつける。

僕も、このブログで何回も書いているように、仕事もプライベートも先をどれだけ読めるかによって、行動も変わってくるし、成果も変わってくる。 よく、将棋のプロは、100手以上、先を読んでいるなんて言われている。僕は、将棋は全くわからないので、将棋で100手先を読んでいるプロの凄さは、想像がつかない程、実感はないが、誰も普段から、先を読んで生活をしているはずだと思う。 人には、誰にも想像力がある。 僕の場合、ビールが好きで、毎日飲んでいるんだけど、「冷蔵庫に2本しかない。でも今日は仕事で疲れたからもう少し飲みたくなるはず。飲みたくなっても良いように事前に買って、置こう。」など、何気なく先を読んだ行動をしているはず。 自分が好きなことや得意なことの先を読むことは、簡単にできてしまう。 しかし、仕事で先を読むとなると、途端に難しくなってしまう。 それには、 『仕事を好きになる。』『興味を持つ。』 ことは、非常に重要だが、それだけではなくても、ある程度の先を読むことは簡単にできてしまう。 『もし、自分だったらどうするか?』 を想像するだけでも、全然違う。 僕は、以前 能力(才能) で、書いたように人は、能力はもちろん、考え方や行動の根本的な所に大差はないと思っている。 辛いのが好きや嫌いなどのように好みはあるけれど、辛い物を食べた後には、『何か飲みたくなる。』など、人によって大小はあっても、根本的には変わらないと思っている。 そう考えると、仕事で急に上司から別の仕事をするよう指示をされた際にも 『何で今なんだろう?』 僕が、急に指示を変更するとしたら、もしかして 『急な来客があったかもしれない。』『クレームが発生した?』 など、想像しやすくなる。 そうすると、自然と同じ指示された内容の仕事をこなすにしても、事前に想像することで微妙に仕事の内容も変わってくるはず。 『もし、自分だったらどうするか?』 を想像するだけで、ある程度の先を読むことはできる。 そして、最も大事なことは、 『自分が先を読んで行動している。』 と、常に思うことだ。決して、暗示ではなく、できると思うことはできるし、自分にはできないと思えばできない。だったら、自分にはできる。と、常に思うようにしよう。 人が思う力は、想像以上に凄い。 自分を信じ、 『もし、自分だっ

コミュニケーションのコツ。

コミュニケーション能力は、仕事を行う上で職種を問わず、非常に大事になっている。 だが、最近はコミュニケーションを上手く取れずに悩んでいる人が多い様な気がする。 コミュニケーションは、意識して取ろうとすると、よそよそしくなってしまったり、馴れ馴れしくなってしまったりしてしまう。 自然にその時、その相手、その場所に合わせて、最適と思われるコミュニケーションを取れるようになるには場数を踏むしかない。 経験に勝るものはない。 しかし、コミュニケーションを苦手としている人にとって、経験を積み重ねるにしても、どうしたらいいのか、わからずに不器用なままの経験を積み重ね、不器用な経験だけ積み重なってしまう。 それでも、一歩ずつ前進はしているんだけど、自分が想像したスピードより、遅いと悩んだり、苦手意識が高くなり、前進していることに気付かずに悪循環に陥ってしまっている気がする。 僕は、コミュニケーションを上手くとるコツとして、必要以上に相手の立場などを気にしないことだと思う。 例えば、仕事の上司は、会社や部署の利益、発展を望んでいる人だし、同僚は、あくまでも友達じゃない。仕事を通じて一緒にいるだけ。取引先やお客様はメリットを望んでいるからこそ、自分や会社に近づいているだけの存在だと割り切ろう。 そのことを頭にしっかりといれておけば、上司には会社にとって利益や発展につながる行動を常にとっていれば、向こうから壁を取り払い、積極的にコミュニケーションを取ってくれる。 取引先やお客様には、最大限のメリットを与えるよう行動すれば、上司と同様に向こうから、積極的にコミュニケーションを取ってくれる。 それに最初は頼り、合わせていくだけで、いい経験を積み重ねることができ、次第に自然とコミュニケーション能力が上がっていくと思う。 いらなくコミュニケーションを取らなきゃと思わずに、普段の行動で相手の立場(何を望んでいるのか?)を意識するだけで良いと思う。 しかし、一番面倒なのが同僚だ。 お互いのメリットがないからだ。共通の趣味などあれば別だが、自分が上に立てば僻みもでてくるし、下になれば上司気取りで色々指図をしてくる。 微妙な関係を保つのは、なかなか困難だ。 そんな時は、自分が同僚より、劣っている点、勝っている点を探し出し、同僚より自分が劣ってい

人のせい「自分は悪くない」では、未来がない。

誰しも、失敗した時に、自分に責任があると思いたくない。ついつい、誰かのせいにしてしまう。 開き直って生きている人は別かも知れないが、大なり小なり 『自分は悪くない』 と、思うことはしょうがないことだと思う。 しかし、自分を成長させるためにも、意識して、全てのことは、 『自分が招いたこと』 だと考えてみよう。 自分を成長させるためには、全てのことに 『自分に責任があり、自分の行い、考え方を変えることで防ぐことができた』 と、考えよう。 例えば、 「納品数通りそろえたから、そのまま持って行って大丈夫。」 と言われ、そのまま納品したら数量に間違いがあったとしても 『自分が再確認を行ったから、数量を間違えた』 と、考えれば、次からは 『確認を怠らないようにしよう』 と思うし、極端だが、 『理不尽に怒られた』 にしても、 『雰囲気をわからずにその場に近づいた自分が悪い』 と思えば、 『周囲の雰囲気を感じとろう』 と、考えることができる。 『機嫌が悪く、理不尽だ』 とだけ、思えば、又繰り返される可能性が高い。 例え、 『他人が悪くても、他人を変えることは簡単なことじゃない。』 『自分を変えることの方が全然簡単だ。』 すると、これまでの行動、考え方で改善すべきことがわかってくる。 改善すべきことがわかれば、先が明るくなってくる。 たったこれだけで、これまでの失敗を繰り替えしだったことが、同じ失敗を繰り返さなくて済むようになる。 僕は、 『失敗することは、恥ずかしいことだと思わない。』 ただし、 『同じ失敗を繰り返すのはバカだ』 と思う。 同じ失敗を繰り返さないためにも、全てのことは、自分に責任があると考えよう。 ただ、自分に責任があると思いすぎると、 『自分はダメな人間だ』 と、落ち込んでしまう。 そうすると、成長どころではなく、委縮した分、衰退してしまう。 この考え方は、自分を卑下するためではなく、自分を成長させるための考え方なので、時々、ご褒美として成功したことも、全て自分に責任があると思おう。 例え、同僚が仕事で成果をあげた時も、 『自分がサポートしたから』 や、 『勝利の女神に愛されている、自分がそばにいたから』 など、悪いことだけでなく、良いことも自分の責任だと考えよう。 (調子にのりすぎないように)

選挙のニュースから学ぶ、仕事の考え方。

僕は、基本的に政治の話はしないようにしている。 特に営業の世界で、政治の話はご法度とされている。政治の世界は、様々な思想な人がいて、話や考え方次第で、今まで築き上げた関係が崩壊してしまう可能性があるからだ。 ただ、衆議院選挙のニュースを見て、仕事の考え方に関係すると思うことがあり、あえて選挙について考えてみた。 最近の選挙で、僕が特に気になるのは、政策が云々ではなく、人の揚げ足取りばかりで、中身が全くない気がする。 僕が日本の政治で物足りないと感じるのはそこが大きい。本来、与党と野党があるのは、足を引っ張るのではなく、様々な考え方から、より良いものを探し出すためだと思う。 しかし、今の政治は揚げ足を取ることばかりで、どちらの政策が勝っているかをみんなに問うことから逃げている感じがする。 自分が劣っていることを自覚してるのかもしれない。 仕事でも同様だ。 相手の弱点ばかり攻めてもしょうがない。同じ社内で争っているなら尚更だ。 社内に敵はいない。現状、もし争っているにしても同じ目的(会社の繁栄、利益)を持っている者どうしだ。 違うと思う方もいるかもしれないが、会社を辞めるなら別にして、会社組織に属するなら、会社の繁栄、利益をなくして、自分の収入も上がることは無い。 だったら、相手の弱点を攻めるべきではない。相手の長所をさらに上回って勝ってこそ、最強の味方になってくれると思う。 僕ならそうだ。 僕のミスや弱点を攻められ、負けたとしても、いつか見返すか、立場を逆転しようと狙ってしまう。 しかし、全力で戦い、全力で負けたなら、本心から応援し、その人についていこうと思う。 今の選挙は、相手の弱点をいかにつくかに囚われ、自分の長所をアピールしていないと思う。 自分の最大の武器がわからないまま、戦っても勝つ訳がない。例え、相手のミスに乗じて勝ったとしても、いつひっくり返されるか心配ばかりで、自分の武器が何なのか忘れ、ひっくり返されないよう、さらに相手の弱点を探すことばかりに集中してしまう。 仕事なら、尚更だ。 自分を向上させるためには、最強のライバルが必要だし、ライバルに勝たなければいけない。 例え、負けたにしても、全力でぶつかっての負けなら、負けを素直に認め、ついていこうと思うはず。 いつか、自分の立場を脅かすかもし

仕事で、人見知りは損をする。

仕事をする上で、コミュニケーション能力が問われる場面が多々出てくる。 僕は、仕事上はコミュニケーション能力は、普通より、やや上に位置するんじゃないかと思う。 しかし、プライベートでは人見知りが激しい方だと思っている。 仕事とプライベートで、何か意識して気持ちを切り替えている訳ではない。自然と身についたことだ。 もちろん、営業経験が長いのも関係していると思っている。 (営業が、人見知りをしてしまってはどうしようもない。) 何が仕事とプライベートで違うんだろうか考えてはみたが、思い当たる節は特にないけど、いい意味で人をなめているんだと思う。 (決して、馬鹿にしているのではない。) 僕だけかもしれないが、大人が子供に人見知りをすることはあまりないと思う。 それと同じように、自分と同等か、自分の方が上だと思うくらいで、ちょうど良いんじゃないだろうか。 (言葉使いや礼儀はちゃんとわきまえた上で。) 人は本能的にどちらが上か比べてしまうものだと思う。自分と同等であれば、自然にどちらが上か下か見極めようとし、その結果がわかるまでコミュニケーションを取りづらかったり、自分より上だと感じると、上の人間の反応を気にするあまり、同じくコミュニケーションが取りづらいんだと思う。 しかし、自分の方が立場が上だと感じると、子供と接するように自らコミュニケーションを取ろうとするものだと思う。 (子供から支持されるのを待っている大人はいないと思おう。) あくまでも、僕の持論だが。 そう考えると、人をなめた位が、ちょうど良いんじゃないかと思う。 僕は、年だけは上なので、そう、思いやすいのかもしれないけれど・・・。 もし、性格的にそう思いづらいのであれば、実際の仕事で自分が誰にも負けないことを作るべきだと思う。 この仕事は、周りにいる人より、自分が優れていると思うえば、最初は、その仕事を行う時に、自分の優位性を感じ、コミュニケーションを取りはじめ、次第に様々な場面でもコミュニケーションが取りやすくなると思う。 「人として、自分が上だ。」 ではなく、 「この場面、仕事、作業は、自分が上だ。」 と、思うだけでも違うと思う。 よく、得意だったり、好きなスポーツの話になると、普段は口数が少なかった人が、急に饒舌になったりするのも同じことだと思う

仕事の整理整頓を上手にしよう。

僕は、比較的、整理整頓が好きな方だ。乱雑に並んでいると片付けたくなってしまう。 仕事でも整理整頓は大事だと、僕は考えている。 それは、机にしても周辺にしても、整理整頓していると取り出したい時に、すぐに取り出すことができる。 時々、乱雑な中から、欲しい物をすぐに探し出すことができる人もいるが、特殊な例だと思っている。 整理整頓されているメリットは、他人にも容易に探しだすことができるということだと思う。 仕事は、何でも一人で行っているものではない。 周りの人たちの力を借りてこそ、できる仕事が増えてくる。 そのためには、周りの人も、いちいち説明や探す手伝いをしなくても、欲しい物を探し出してもらわなければいけない。 (自分の机を他人に触って欲しくないと僕も思うけど、例えとして) そうすると、同じものを2人で探す時間の無駄や手間が省け、効率よく仕事を進めることができると思う。 そして、身の回りを整理整頓する癖をつけると、頭の中も整理整頓されてくる。 取り出したい知識をすぐに取り出すことができるのは、非常に大事だと思う。 せっかく、身に着けた知識がすぐに取り出せなければ、身についてないことと同じだから。 頭の中の整理整頓は、見えないので、僕の考えが正しいか間違っているかは、正直わからないけど、僕はそう考えている。 身の回りが散らかっていても、頭の整理整頓は、しっかりできている人もいると思う。 そんな人は、実は整理整頓が苦手ではなく、面倒でやっていないだけだと思う。 そんな時は、面倒の先を見るようにすると良いと思う。 整理整頓=面倒=時間がもったいない  から 探す=面倒=時間がもったいない  へ 僕は、いつもそう思いながら片付けをしている。物の場所を聞かれても、すぐに答えることができ、どこに置いたか思い出す面倒から解放されたいので。

大道芸に出会い、学んだこと。

今日、偶然イベントで大道芸を見る機会に出会った。芸人は 『RYU』 さんという方だったが普段、大道芸を見る機会などなく、初めて彼を知った。 プロフィールRYU ジャグリングを得意としているようで、ボールを使ったりなど、色々な芸を披露していた。 ほんのわずかな時間だったが、とても楽しい時間を過ごすことができた。 ただ、純粋にパフォーマンスのみ楽しめればいいんだけど、どうしても僕は彼の表情やしぐさに注目してしまう。 時々見せる、彼の真剣な眼差しが、特に印象に残った。恐らく、非常に難しいパフォーマンスだったんだと思う。 (僕には、全てが真似できないので難しさを上手く表現できない。) マイクを通して聞こえる、彼の声はユーモアやコミカルな内容で、観客を楽しませ、難しいパフォーマンスを簡単にやってのける。 (表現は悪いが、子供が遊んでいるかのように) そして、時々繰り返されるしぐさや行動で気持ちを落ち着かせるためのルーティンなのかなと思いながら、見ていた。 (年をとると、純粋にパフォーマンスを楽しめないらしい。) 巧みな話術で、観客を引き付け、観客の目が自分(パフォーマンス)に注目が集まったところで、徐々にパフォーマンスを加速させていく。 時々、スピードダウンし、観客の反応を確認しながら、再度、加速させていく。 最初は、観客も恥ずかしながら彼にお願いされながらの 『拍手や声援』 だったものが、最後は、自然に 『拍手と声援』 が沸き起こる。 見事に、彼に取り込まれてしまった。 僕は、仕事中心の人間なので、どうしても仕事に結びつけてしまうが、仕事でも最初から、本題に入ったのでは、スムーズに進めることができない。 彼のように、話術(世間話)だったり、資料などの準備で、観客(仕事相手)を自分に引き付け、最大限の成果が出せるようにするべきだ。 そして、今回、非常に勉強になったのが、一人で走りすぎてしまうと、観客(仕事相手)を置いて行ってしまう。 時々、スピードダウンし、自分にちゃんとついてきているか確認しながら、さらにパフォーマンス(仕事)を進めて行くことで、観客(仕事相手)を更に自分に引き付けることができ、最大限の成果をだせるということに気付いた。 どうしても、 熱が入りすぎると、観客(仕事相手)をおいて行ってしまいが

なぜ?(臨機応変)は、未来をつくる魔法の言葉。

仕事を何も疑問に思わずに黙々とこなすより、常に 『何でだろう』 と、疑問に思うことで仕事の内容が大きく変わってくる。 一番は、 『何でだろう』 と、疑問に思うことで、今おこなっていることに興味が湧いてくる。興味が湧くと好きになる。そして、好きになることで仕事が上達(成長)して行く。 と、良いリズムで仕事ができるからだ。 よく例に挙げられるのが子供だが、子供の吸収力は計り知れない。いつも、親や大人の言動を注意深く観察し、常に 『なんで?』 と、聞いてくる。 自分がまだ知らないことを知りたい興味が強いからだと思う。 勉強や運動だけでなく、全てのことを大人には真似できないスピードで成長していく。 仕事でも同じように『なんで?』と、常に疑問に思うことで成長のスピードが変わるのはもちろんだが、仕事の内容まで変わる理由を多くの人は理解していると思う。 仕事での結果は算数の『答え』であり、その答えにたどり着く『式』を考えていくのが仕事だと思う。 たし算、ひき算だけで、答えにたどり着ける容易な仕事の時もあれば、円周率のように限りなく答えに近づけるよう、難解な仕事もある。 そして、答えも『π』『3』『3.14』『3.1415‥‥』と、人によって求めることも変わってくる。 そして、臨機応変さが求められるのが、答えが同じ『2』でも、欲している相手によって、『1+1』『0+2』『2+0』『1*2』『2*1』『2/1‥‥』と、式も変化させていかなくてはならない。 式を考えるためには、相手が『なぜ、その答えが必要なのか?』を考えると、『たし算なのか?ひき算なのか?方程式か?』そこに、辿り着くための道筋を変化させることで、相手に与える印象も好感も大きく変わってくる。 いつも『1+1』で行っていても、間違いはないかもしれない。しかし、なぜ『2』なのかを疑問に思い、臨機応変に式の内容を変化させるべきだと僕は思う。 例え、単純作業の繰り返しであっても、疑問に思うことは多々あるはず。 (僕の場合、もっとキーボード入力を早くするにはどうしたらいい?など) そして、答えが見つからない疑問もでてくることもあるけど、そんな時は、大きなチャンスだ。 これまでも、見つからない答えを先に見つけた人がビジネスに結びつけ、成功している。 (答えに辿り着くが式が今まで

臨機応変に仕事の効率を考えよう。

その時、その時に応じて臨機応変に対応できるか、どうかで 仕事の効率 は変わってくる。 僕は、あくまでも効率が変わるだけだと考えている。 それは、臨機応変に対応していくには、何よりも経験が必要とされる。しかし、同じ仕事をいつもの通りの順番でこなしたとしても、時間はかかるかも知れないができないことはないと思うからだ。 だから、慌てて何もかも臨機応変に対応しようと考えなくても、いいと思う。 ひとつひとつ確実に終わらせていくのも大事だから。 しかし、いつまでも新人ではないので、経験を積み、慣れた仕事なら、その場、その時に応じて臨機応変な対応が求められてくる。 時間は待ってくれない。全ての人に平等で、1日は24時間しかないからだ。 例えば、丸1年が経過した新人の場合、ベテラン社員よりも仕事をこなすのが10分遅かったら、1年で3650分(面倒なので休みは考慮しない)となり、約2日半の遅れを取ってしまう。 1年目、2年目であれば会社も経験不足も考慮するし、早さよりも正確性等を重要視するだろう。 しかし、丸10年経過した中堅社員の場合、約25日の遅れとなってしまう。 25日の差があると、多くの仕事で差ができ、今まで同位置にいたと思っていた、周りの社員からどんどん引き離されていってしまう。 そうならないためにも臨機応変に対応していくことは、大事になってくる。 臨機応変に対応することは、決して難しいことじゃない。 先ずは、経験を積むこと。そして、一歩先、二歩先を見て、行動するだけでいい。 例えば、『通路に物が置いてあることを知っていても、そのままにしておくのではなく、歩きやすいようによけておく。』そうすると、いざ急用でも問題なく通ることができる。 (本当は、その前に通路に置かなければいいのだが。) そんな、小さなことから先を読む癖をつけることで、臨機応変に対応することは簡単にできる。 しかし、 臨機応変に対応するのは、大事であって、重要ではない。 早く仕事を終わらせるのが重要ではなく、正確に終え、最大限の結果を生み出すのが重要だからだ。 僕の周りを見ていても、不器用だなと思う人は沢山いる。 器用に効率よく、その時に応じて臨機応変に対応している人を見ると、一見仕事ができると思い込んでしまう が、 不器用と思っていた人の仕事

精神論は、間違っていない。

最近は、精神論を嫌う人が多くなってきているけれど、僕は、大事な要素のひとつに 『精神論』 はあると思おう。 それは、人は自分で想像できないことは、できないと思うし、想像できることは、できると思うからだ。 根性で、苦しいことに耐えるということではなく、イメージを大事にして欲しい。 悪いイメージしかなければ、結果は悪い物となってくる。逆に良いイメージを常に持つことができれば、良い結果へと結びついてくる。 もちろん、それに見合った、仕事なり、作業をしなければいけないのは絶対だが。 楽しんで仕事ができれば、仕事に興味がわき、視野が広がり、そして創意工夫が生まれてくる。そうすると、ますます仕事が楽しくなってきて、常に、良いイメージを持つことが当たり前になってきて、必然的に仕事の結果も必ず良いものとなる。 反対に、イヤイヤ仕事をしていると、ただ目の前の仕事しか見えず視野が狭くなる。そうすると、ちょっとしたミスや、何かいつもと違う流れになってしまった時に対応が後手後手にまわり、結果的に仕事も上手くいかないことが多くなってくる。 さらに、仕事のミスなども重なり、上司などから、注意や怒られたりして、今度は「また、失敗をして怒られたらどうしよう」と、悪いイメージしか持てずになり、失敗を繰り返してしまう。 怒られたくないと思えば、思うほど 『怒られた時のイメージ』 が頭に焼き付き、気付くと怒られるほうへと自然に向かって行ってしまう。 人には、自分が持つイメージ(ゴール)へと自然に導かれていくような気がする。 僕は、常に、良いイメージを持つように心がけたいと考え行動している。 (楽観的な所が多く、難しい問題に当たることもあるけれど、それもまた楽しめればいいかな位にしか考えていない。)

能力(才能)は、誰にでもある。

僕は、基本的にはみんな能力の差に大差はないと考えている。 スポーツ選手や学者に誰でもなれる可能性を持っていたはずだと思う。 ただ、誰よりもスポーツが好きで、人一倍練習し、様々な経験をしたからこそ、プロの選手として活躍したり、誰よりも勉強が好きで、人一倍の勉強をしたからこそ、有名な大学に入り、学者になったんだと思う。 もちろん、一部のプロの選手の中でも際立った結果を残している人達は、才能にも恵まれたんだと思うけど。 だから、誰もがスポーツ選手や学者になるチャンスはあったんだと思う。今からでも、遅くない人は沢山いるはずだ。 (これは、スポーツ選手や学者として、活躍されている方を馬鹿にしているのではなく、もっと自分を信じて欲しい思いで書いている。) 大人になってしまうと、自分の能力や才能がないと信じて、諦めてしまう人が多くなる。 でも、それは、能力や才能のせいにして、努力することを諦めているだけだと思う。 仕事でも、能力の差を感じる人は多くいると思う。けれど、それは逃げているだけで、本当は誰にでも何でもできるはず。 誰よりも、その仕事を好きになり、失敗も成功も含め、多くの経験をすることで、きっと出来ると思う。 人より、苦手なことがあれば、人一倍その仕事をこなし、多くの経験を積み重ねるべきだと思う。 自分には、能力がない。才能がない。と言う人は、周りから見れば、仕事の数を誰よりもこなしていない。 成功だけでは、その仕事の本筋は見えないはず。失敗したからこそ見えてくるものがある。だから、失敗を恐れずに、チャレンジして行こうと、僕は、いつも考えている。 環境も能力や才能を形成するうえでは、大きく関係してくる(レベルが高い環境であれば必然と自分のレベルも上がってくる)が、今は、ネットで、様々な情報を入手できる。 自分が今置かれている環境が悪くても、自分の能力は伸ばせるはずだと思う。 僕も、今こうしてパソコンをいじっているけど、つい最近までは、メールの設定など全部人にお願いし、ただ打ち込むだけしかできなかったが、今は興味も湧いて、他のブログも参考にしながら、もっと、みんなに関心を持ってもらえるブログにしたいと考えている。 リニューアルする日も近いかもしれない。 たぶん・・

今、やならきゃいけないのは何?仕事の順番。

仕事をする上で、ひとつの仕事が終わってから、次の仕事にと進めることができれば、何も問題はないけれど、大抵はいくつかの仕事を並行して進めて行かなくては、ならないことが多いと思う。 その中で、よく言われる優先順位として 重要で至急性の高い仕事 至急性はないけれど重要な仕事 至急性のみ高く、重要性の高くない仕事 至急性も重要性も高くない仕事 がある。さらに細分化もできるが、細分化しすぎると優先順位を決めるのが優先的になってしまい、仕事に着手するのが遅れるだけで、この4つの優先順位を頭で考えずに直観的に判断できるようになってからで充分だと思う。 しかし、この4つの優先順位も実際には中々自分の思った通りに進めることができない。 特に、遠慮しがちで断ることが苦手な人には難しい。 例えば、お客様にお会いするまでに準備しなくてはいけない物や知識があり、時間を見て準備しようと考えてはいたけれど、突然、上司に至急の仕事をお願いされ準備できずに時間が過ぎ、気付いた時には、お客様とお会いする時間になり、お客様を待たせたり、不快な思いをさせてしまった。 など、上司などからの仕事依頼で優先順位を見失ってしまう場合が多々ある。 本当は、上司などにハッキリと準備を優先したい旨を伝え、断るなり、後回しにするば良いのだが、中々難しい。 しかし、僕は勇気を出し、準備を優先したいことを伝えることをお勧めする。 なぜ、準備を優先するのか理由を明確に伝えることで上司も優先順位を判断し、理解してくれるはずだからだ。 それでも、上司が譲らない場合は、2つ考えられる。 自分が重要と思っていただけで、上司からの仕事の方が更に重要だった場合 上司がわがままかバカ 1のケースだった場合、上司も準備の重要性を理解してくれ、フォローもしてくれるはず 2のケースであれば、上司の仕事を優先する必要はない。ただ、わがまま上司の場合には、八つ当たりやパワハラも覚悟しなくてはならないけれど、その内、潰れていく人間からの八つ当たり、パワハラは絶え、自分の優先順位を守ったからこそできた実績を積み重ね、その上司を越えるべきだ。 時々、世渡りのみが上手く、ずるい上司もいるけれど、そんな時は、さりげなく、周りも巻き込みながら報告するようにして、第三者を味方につけ、準備を疎かに

仕事にアクシデントは、つきもの。

今日は、本当についてなかった。 誰が悪いわけではないけど、アクシデント続きで仕事が予定通りに進めることができない一日だった。 そんな日は、だんだん視野が狭く、自分中心しか見えなくなってしまう。全然関係ないところで仕事をしている人にもイライラしてしまう。 (なんとか、八つ当たりまではしなかったが) 態度には出ていたかもしれない。 まだまだ、人間ができてないと感じる一日だ。 アクシデントは、一つ一つは大したことがない。(先客がいて、待ち時間が長く、次の予定がくるってしまうなど、本当にくだらないことだ。) しかし、一度歯車がずれると、だんだんと大きくなり、イライラに繋がってしまった。 もっと、時間に余裕を持って予定を組んでいれば済んでいたはず。(予定が多くて、どうしてもタイトになってしまった(言い訳だけど)) 本当は、何も焦る必要はなかったんだけど、車を運転していれば、いつもより赤信号にぶつかる数が多いと被害妄想まで出てしまう。そして、さらに焦ってしまう。 開き直って、一度休憩し、頭をスッキリすれば良かったと仕事が終わってから、反省中。 上手くいかない時は、何をしても上手くいかない。上手くいかないまま、何とか誤魔化しながら仕事をしてもしょうがない。 今度は、多少、迷惑をかけようとゆっくりと休憩しよう。 頭がスッキリしたら、きっと遅れた分も取り返せる仕事ができるはずだから。

仕事は好き?

僕は、仕事が大好きだ。しかし、生き甲斐ではない。 仕事をする理由として、『お金を稼ぐ』だと思う。 その域を超え、お金ではなく、「趣味として」や「時間があるから」「興味があるから」などの理由で仕事ができる環境にいる人は、ごくわずだ。 大半の人は賃金を得ることが前提としてあり、その次に、「趣味の延長」「興味がある」などと続くことだと思う。 仕事をすることで、生活ができ、プライベートも充実させることができる。 プライベートを大事にするあまり、仕事が疎かになったのでは、本末転倒だし、その正反対の仕事を中心としすぎ、プライベートが犠牲になるのも本末転倒だ。 仕事、プライベート共にバランスを上手く取れるかどうかが重要だと思う。 その中で、僕もそうだし、多くの人は一日の大半を仕事に費やす。(ブラック企業とか、関係なく) 8時間労働としても、通勤、昼を含めると、10時間以上は、会社に拘束されている人が殆どだと思う。 もちろん、一日数時間の仕事でも生活が成り立つ人もいることと思うが、その人たちは恵まれた環境にいる、ごく僅かな選ばれた人たちなので、別として。 一般的な人が、一日の大半の時間を費やすこととなる仕事だが、どうせやるなら、楽しくやった方が絶対に良いと思う。 仕事が楽しければ、向上心も湧いてくるし、イヤイヤするより覚えるのも早い。 楽しく仕事をするために、一番簡単な方法は『仕事を好きになる』ことだ。 今行っている仕事が嫌いな場合でも、小さくても構わない(通勤が楽・給与が高いなど)どこか好きな所を探しだし、そこから好きを拡げていくうちに仕事が好きになってくる。 そうすると、仕事が楽しくなる。楽しくなると『給与も上がる』『拘束時間を少なく出来る』など、プライベートに費やす時間とお金が増えてくる。 プライベートも充実し、リフレッシュができ、更に仕事が楽しくなる。 と、相乗効果が生まれてくる。 よく、仕事よりもプライベートが大事だからと仕事を疎かにする人を見かけるが、極僅かの選ばれた人は除外すると、本当にプライベートが充実しているか疑問符がついてしまう。 どちらかと言うと『充実している』と、思い込んでいるだけで、実際は小さな世界での小さな充実でしかないような気がする。 もっと広く見渡し、今以上に充実した生活をしたいと僕は思