スキップしてメイン コンテンツに移動

個性って、なんだろう?

ここ最近、個性を重んじる傾向が、変な方向に向かって、進んでいるような気がする。

個性的なことは、決して悪いことではない。僕も、「個性的だ」と、よく言われる。
人には、それぞれの感性や感情があり、歩んできた道のりがある。
そんな人それぞれの個性が集まることで、新しいものが生まれてくるんだと思う。

個性がない、画一的な人の集まりでは、1+1=2にしかならないけれど、個性が集まることで、3にも4にもなってくる。

個性には、そんな力が秘められている。

しかし、最近は、個性の解釈を捻じ曲げ、変な方向へ導こうとする人たちが多く見受けられる。
代表的なのが、子供へ個性を強要する親だと思う。
髪が長い男の子など、一目で性別が判断できない子が増えてきている。
百歩譲って、子供が自分で選んでいるなら、構わない。
しかし、殆どが、親の趣味(希望?)による、強制でしかない。
そんな親に限って、「今は、個性が大事(大切)」や「うちの子は、みんなと違う」など、勘違いな自論を語る。

僕は、そんな人(親)を見ると、「自分の個性のために、子供を利用しているだけで、子供はアクセサリーやおもちゃじゃない」と、つくづく思う。
(僕の意見も、勘違いな自論かもしれないけれど。)

しかし、小さな頃から慣ら(洗脳)されてしまうと、本人も気付いた時には、自分の体の性と、気持ちの性との違いに悩んでしまうんじゃないか?
『性同一性障害』の中には、親のエゴに犠牲となった子供たちも少なくないと思う。
これは、『性同一性障害』への偏見ではない。もし、自分の子供が、体と心の性が違っても自分の子供であることは変わらないし、堂々として欲しいと思う。

僕は、個性を強制することが大間違いだと思う。
これは、家庭でも学校でも会社でも同じだ。

強烈な個性の人もいれば、あまり個性が目立たない人もいる。

でも、人それぞれ経験してきた過去は違う。同じ経験をした人は、誰一人といない。
感じ方、行動、表情など人それぞれ違うはず。

だから、誰にでも個性があり、個性的だ。それを必要以上に求めることは間違いだし、必要以上に個性を主張する必要もない。

ただ、自分が思ったことや感じたことを素直に表現するだけで、充分、個性を発揮することができる。

求めらて出す個性は、本当の個性じゃない。個性的に見て欲しい願望で作った個性だ。
そんな個性を求めるのではなく、人それぞれの感性、感情や行動を尊重する、本当の個性を引き出せる環境を作り出すことが、家庭や学校、会社の重要な役目だと思う。


コメント

このブログの人気の投稿

怒られ続けると、どうなる?

僕の同僚の中に、毎日毎日、怒られている人がいる。 「本当によく、怒られるなぁ」と、ある意味、感心してしまう。 なぜ、彼は、毎日怒られ、それを直すことができないんだろうか。 以前、 怒られたくない! でも、触れたように、仕事が全て、後手後手になってしまっている。 どうしたら、怒られないかを考えた末、指示されるのを待つだけになってしまったり、やりかけの仕事を投げ出してでも、上司の指示に従い、結果、投げ出した仕事の件で、又、怒られる悪循環に陥ってしまう。 人には、 想像したことを実現する力 を持っている。 そんな 力 が、 『怒られたくない』 と思いが強くなりすぎて、逆に、 『怒られる状況』 を生み出してしまっている。 (怒られている姿を想像してしまっている。) なら、その悪循環を断ち切るには、どうしたらいいのだろうか? 僕なら、開き直る。失敗や不手際で怒られるのは、しょうがない。 それは、それ。次は、次。その失敗や不手際を超える成果を残せばいいだけだと、僕は考えている。 ただ、僕は、人よりもメンタルが強い方だから、できることかもしれない。 しかし、メンタルが強くないと、怒られ続けることで、臆病になってしまい、全てが悪い方に考えてしまい、そこからプラス思考に変えることは困難になってしまう。 本当は、上司が、さじ加減で、『怒る』『褒める』を使って、部下を巧みに扱うべきだと思うけれど、それは他力本願でしかないし、僕の同僚もそうだが、上司が怒りやすい人材であったり、性根が合わないのかもしれない。 そこで、諦めたら(逃げ出したら)、一生、諦める(逃げる)しか、なくなってしまう。 自分の道は、自分でつくるべきだ。 では、どうすれば、その悪循環から、脱出できるのだろうか? 僕は、まず 『褒めらる』 ことを目標とするべきだと思う。 『怒られる』 のが、怖いと思う人は、 『褒められる』 ことを好む傾向にあると思う。 上司を研究し、 『何をしたら、喜ぶのか』 を考え、上司好みの部下を演じるしかない。 すぐに 『怒る』 上司は、案外単純で、自分が気に入れば喜ぶ。 最初はこそ、上司にもこれまでの状況(怒り続けた)もあり、素直に誉めたりしないと思う。 しかし、上司の気に入る状況が続けば、自然と 『褒める』 環境ができてくる。...

障害者は、本当に不幸?

昨日から、空いた時間に24時間テレビを見ながら、思った。 障害者は、本当に不幸?なのかと。 周りを見渡しても、あんなにイキイキした人を見かけることが少なく(特に大人)、人生を充分楽しんでいるんじゃないかと。 もちろん、人には見せない裏側で、それこそ人一倍の苦労を重ねているからこそのイキイキした顔なんだろうと思うけど。 鏡を見るの怖くなった。 世界には背が高い人・低い人、太っている人・痩せている人、いつも笑っている人・怒っている人等々、様々な個性が溢れているように障害も個性の一つじゃないのかと。 『健常者』『障害者』の言葉ではなく、その人の個性として認め合い、得手・不得手をお互いに補える、そんな世の中になったとしたら、もっとイキイキした顔が周りに溢れるんじゃいかなぁ。 そんな世の中も見てみたい。 ※ただ、自分が同じ立場に立った時、同じ努力と笑顔ができる自信はない。一瞬、羨ましいと思った自分が恥ずかしいし、情けない。

自分の器を大きくする。

よく、人を評価する際、 『あの人は器が大きい・小さい』 など、器に例えられる場合がある。 人としての器は、小さいより、大きい方が良いに決まっている。 どうしたら、器を大きくできるんだろう。 器の大きい人と言われて、想像することは、 何でも受け入れてくれる。 認めてくれる。 細かいことを気にしない。 などが、思いつく。 それなら、どうすれば自分の器を大きくすることができるだろうか。 僕の場合は、人の器とは、 『成長する、お茶碗(器)』 と、考えている。 日々、お茶碗を使用し、 『食べる量(経験)』 に変化がなければ、大きくもならず、小さくもならない。 『食べる量(経験)』 が多くなると、自然に、こぼれ落ちないよう 『お茶碗(器)』 も成長していく。 そんな魔法のお茶碗だ。 もちろん、 『食べる量(経験)』 が減ると、 『お茶碗(器)』 も、徐々に小さくなってしまう。 なぜ、こんな子供だましの例えをするのかと言うと、 『今の自分に満足しない』 貪欲さが、人の器を大きくしていくと思っているからだ。 決して、他人より、 『上や優位に立ちたい』 など、今の自分を量るのに、他人を利用するのではなく、 『今日の自分より、明日の自分』 と、自分自信を評価基準として、成長していく必要がある。 そして、自分を成長させていく、一番の方法は、 『経験だ。』 これに、勝るものはない。 しかし、誰にも、平等に時間は流れていて、人の倍の経験を積みたいと思ったら、人の倍の時間を必要とする。 ならば、経験する中身を濃い物にしていくしかない。 (スライムだけの経験ではなく、より強い敵から、経験値を得る。) 中身の濃い経験にするには、 『人の話(経験)』 をよく聞くこと。 『人の話(経験)』 を自分の経験とするこもできるし、近道を教えてくれることもある。 また、流れを読むことも必要だ。 川の下流から、上流に泳ぐには、相当の体力が必要だが、上流から下流へは、比較的泳ぎやすい。 ただし、全体を把握していなければ、泳いだ先に、大きな滝があるかも知れないし、近くに船があるかも知れない。 流れを読むには、先ずは細かいことなど、気にせずに、周りを見渡す。 その中で、気になる...