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同じ失敗は、何度まで?

僕は、同じ失敗を繰り返すのは 『やる気がない』 だけだと、思っている。 一度、二度は、経験として、どんどん失敗するべきだと考えているけれど、三度以上、同じ失敗を繰り返すのは、正直 『やる気がない』 と思う。 唯一、当てはまらないとすれば、職人やスポーツ選手のような、技術を有する仕事や、技術面だと思う。 僕は、職人の世界に身を置いたことがないから、詳しくはないけれど、スポーツでパスミスなどを失敗と捉えると、一度、二度のミスを経て、全てミスなく、パスできるなら、世界でトップを取っているはずだ。 極端な話は、別にして、なぜ、失敗したのか、同じことを繰り返さないためにも、 なぜ、失敗をしたのか? 自分に足りなかったのは、何なのか? 何をしなくては、ならないのか? 何を学ばなければ、いけないのか? を考えなければ、いけない。でないと必ず同じ失敗を繰り返す。 失敗した過程には、様々なシチュエーションがあり、今回の失敗は、今までと状況が違ったと思う時があるかも知れない。 しかし、 『全てのシチュエーションを経験しなければ、失敗を繰り替えすかもしれない。』 と、いうことは、間違いだ。 人には、想像する力がある。 『こういう場合はどうする?』 など、一度の失敗に対しても、様々な状況を想像し、状況が変化したとしても、失敗を繰り返さないよう改善策を考えることはできる。 でも、同じ失敗を繰り返す人は、 『誰かが、その前に教えてくれれば』 や 『あの時、あんなことが起きなければ』 など、自己弁護のための想像しかしない。 自分は悪くない と、思いたいから。 それでは、たかが知れている。 僕は、失敗した時、最初は 『いい経験をした。二度と繰り返さないようにしよう。』 と、心に誓い、二度目には、 『同じ失敗を繰り返すのは馬鹿だ。馬鹿には、なりたくない。そのためには、どうする?』 と、自問自答する。 おかげで、失敗を あまり 、繰り返さずに今までやってこれた。 自己弁護し、自分の失敗を周りや状況のせいにしてしまうのは、簡単だし、自分の プライド も保てる。 しかし、それは、一時の自己満足でしかない。 そんな、小さな プライド は、捨てるに限る。 それよりも、今の自分より、少しでも(一歩でも)、上を目指す気持ちこそが、

苦しい時こそ、笑顔を大切に。

僕にとって、 『笑うこと』 は、自分を前向きにしてくれる魔法の薬だ。 どんな、嫌なことや苦しいことがあっても、 『笑顔』 を作ることができれば、まだまだ、自分には 『笑顔』 を余裕がある。 もっと、嫌なことが続いても、苦しくても、まだまだ耐え、乗り切ることができると思えるからだ。 僕は、幸いにも 『笑顔』 を作れなくなるほど、嫌なことが待ち受けていたり、苦しい経験をしたことがないだけかもしれないけれど。 しかし、こんな僕でも、 『一日一回でも笑えたから、今日は幸せだった。』 と、自分に言い聞かせる日々を過ごしたこともある。 無理矢理、笑えるようにしていた。鏡では見てないけれど、ギクシャクした笑顔だったかもしれない。 でも、無理矢理でも笑える何かを探し、笑うことを続けることで、物事を前向きにとらえることができるようになってくる。 そんな時に、 『本当に不幸のどん底で、先が全く見えない暗闇なら、笑えるはずがない。』『僕なら、大丈夫。』 と、自分に言い聞かせる。 なぜなら、目の前には、 『希望の光』 が、見えてくるはず。 前向きに考え始めた時に、無理矢理でもプラス思考に持っていくことで、一気に流れを変えてしまうことができる。 僕は、嫌なことや苦しい時、 『笑顔(笑うこと)』 で、乗り越えてくることができた。 実際、 『笑顔(笑うこと)』 には、目に見えない力があると思う。 どんな時でも、 『笑顔(笑うこと)』 が、自分に良い流れを引き寄せてくれるはずだ。 これは、僕みたいな楽観的な人だけではなく、みんなが持っている、不思議な力だと思う。 『笑うこと』 は、素晴らしいことだ。 どんな、嫌なことや苦しみからも、脱出する道を照らしてくれる。 最初は、作り笑いでも、その内、心から笑うことができるはず。 心から笑えることができたら、幸せだし、進む道も、必ず明るいはずだ。 だから、僕は今日も笑っている。

自分の器を大きくする。

よく、人を評価する際、 『あの人は器が大きい・小さい』 など、器に例えられる場合がある。 人としての器は、小さいより、大きい方が良いに決まっている。 どうしたら、器を大きくできるんだろう。 器の大きい人と言われて、想像することは、 何でも受け入れてくれる。 認めてくれる。 細かいことを気にしない。 などが、思いつく。 それなら、どうすれば自分の器を大きくすることができるだろうか。 僕の場合は、人の器とは、 『成長する、お茶碗(器)』 と、考えている。 日々、お茶碗を使用し、 『食べる量(経験)』 に変化がなければ、大きくもならず、小さくもならない。 『食べる量(経験)』 が多くなると、自然に、こぼれ落ちないよう 『お茶碗(器)』 も成長していく。 そんな魔法のお茶碗だ。 もちろん、 『食べる量(経験)』 が減ると、 『お茶碗(器)』 も、徐々に小さくなってしまう。 なぜ、こんな子供だましの例えをするのかと言うと、 『今の自分に満足しない』 貪欲さが、人の器を大きくしていくと思っているからだ。 決して、他人より、 『上や優位に立ちたい』 など、今の自分を量るのに、他人を利用するのではなく、 『今日の自分より、明日の自分』 と、自分自信を評価基準として、成長していく必要がある。 そして、自分を成長させていく、一番の方法は、 『経験だ。』 これに、勝るものはない。 しかし、誰にも、平等に時間は流れていて、人の倍の経験を積みたいと思ったら、人の倍の時間を必要とする。 ならば、経験する中身を濃い物にしていくしかない。 (スライムだけの経験ではなく、より強い敵から、経験値を得る。) 中身の濃い経験にするには、 『人の話(経験)』 をよく聞くこと。 『人の話(経験)』 を自分の経験とするこもできるし、近道を教えてくれることもある。 また、流れを読むことも必要だ。 川の下流から、上流に泳ぐには、相当の体力が必要だが、上流から下流へは、比較的泳ぎやすい。 ただし、全体を把握していなければ、泳いだ先に、大きな滝があるかも知れないし、近くに船があるかも知れない。 流れを読むには、先ずは細かいことなど、気にせずに、周りを見渡す。 その中で、気になる

仕事とうつ病。

正直、僕は、仕事のストレスからくる、うつ病などを発症してしまう人とは、正反対に位置していると思う。 しかし、今の日本の社会で、ストレスからくる、うつ病などの精神障害は深刻になっている。 僕は専門家じゃないし、ネットで特に検索したわけではないので、あくまでも僕の主観だが、以前より、遺伝的に精神障害が発症しやすい人の割合は、多くなっていないと思う。 ストレスなどの外的要因によって、後天的に発症している割合が多くなっているんだと思う。 それは、なぜだろう? 昔は、体力重視の仕事が多く、ストレスがたまりづらかった。 人間関係が希薄になった。 核家族化が進んで、ストレス耐性が弱くなった。 など、様々な要因があると思う。 うつ病などの精神障害は、一度、発症すると、中々、本人だけで克服することは困難になってくる。 支えてくれる人が必要になり、支えられる側、支える側、両者ともに、負担がかかってくる。 僕は、医者ではないので、発症した人に、どう克服するかなど、伝えることはできない。 でも、これ以上、進行すると精神障害の可能性が発症するかもしれない、予備軍の人であれば、僕の持論も参考にして欲しい。 僕は、基本的に一人で何もできない人だ。 仕事も多くの人の力を借りるし、家庭でも、一人では、料理すらできない。 野生の動物であれば、淘汰されているだろう。 しかし、僕は生きているし、仕事もしている。 それは、 『自分一人で生きている訳でも、何でもできる訳ではない。』 と、認めて、僕の人生に多くの人を巻き込んでいるからだ。 僕なりの観察では、ストレス耐性が弱い人は、 『何でも自分がやらなきゃ』や『自分が正しいのに、なんで?』 など、 『自分が』 という思いが強い。 先ずは、そこから脱出し、 『自分が』から『誰が』 に変えていくべきだと思う。 決して、他人に全てを任せるのではなく、やれることはやる。しかし、時間的、得手不得手など、他人に任せた方が良いと判断した場合は、他人に任せる。 その際に、重要なのは、何でも任せてしまっては、 『周りから反感をかってしまう。』『何もできなくなってしまう。』『周りがストレスから、疲れてしまう。』 など、弊害もでてくる。 だか

仕事で正義感は、大事?

ある程度の正義感は、仕事でも大事になってくるとは思うけれど、強すぎると仕事にならない。 僕の経験では、商品の粗利を知ってしまうと、営業マンは、営業の仕事として、役に立たなくなってしまう。 それは、 『お客様に損をさせているんじゃないか?』 と考え始めたり、 『自分の都合で、価格(値引き)を変えてしまったり』 と、会社としては、扱いづらい営業マンになってしまう。 お客様にとっては、ありがたい存在かも知れないけれど、会社にとっては、決してありがたい存在ではない。 会社は、あくまでも利益を追求する組織だ。ボランティアではない。 『安く買って、高く売る。』 が、商売の鉄則だ。 そこに、感情が、入る余地はない。 例え、粗利が高い商品であっても、需要と供給のバランスがあり、その中で価格設定されている。 もちろん、時代の流れを読めずに、これまで、粗利が高く取れていた商品をいつまでも同じ粗利設定で販売していては、競合他社に負けてしまうことも考えられる。 しかし、その一線を決めるのは会社組織であって、個人ではない。 正義感が強いばかりに、自分の世界だけに縛られて、勝手な行動は、会社組織の根底を揺るがしてしまう。 粗利で言えば、粗利を高めるためには、『高く売る』『安く仕入れる』『無駄な経費を削減する』など、業種によっては、まだまだ方法は沢山ある。 だが、正義感の強い人は、自分の中だけで基準を決めてしまい、結果的に一部だけしか見ておらず、全体を見ることができていないことが多い。 何も、会社の指示通りに全てを行う、 『社畜』 になれと言っている訳ではない。 中途半端な正義感は、良くないと思っているだけだ。 会社全体、取引先企業、お客様と全体を知り、その上で、会社にとってのメリットをアピールする必要がある。 正義感が強い人は、そこの配慮が足りない。 お客様のために、 『商品を安くしたい。』 『会社からは、これ以上の値引きは許可されない。』 『取引先企業を叩いて安く仕入れる。』 『結果、会社から値引きの許可がおりた。』 『お客様に安く提供できた』 上の例だと、上手く、いったように見えるけれど、『取引先企業』をないがしろにしてしまっている。 その結果、『取引できなくなり、お客様がその商品をリピートや故障修理したくてもできず

みんなは、自意識過剰な人に対して、どう対応している?

職場に、自意識過剰な人は、必ずいるはず。 そんな時、みんなは、どういう対応をしている? 僕は、どんな仕事でも、人並み以上の仕事をすることは、決して難しいことではないと思っている。 人並み以上が、どのラインなのかにもよるとは思うけど、僕より、その仕事がを数年程度長く経験している程度ならば、数カ月もあれば追いつける自信がある。 但し、その職種の平均をやや超える程度であればだが。プロ中のプロ。エキスパートと呼ばれる人には、一生かけても、追いつけないと思う。 僕だけではなく、平均程度であれば、ちょっと頑張れば、誰でもできると思う。 『必ず、できる』 と、思う力と、 『必ず、やってやる』 と、決意があれば、誰でもできる。 平均程度とは、そんなもんだと思う。 平均を超える為には、更なる 『努力とアイデア、そして、今の自分に満足することのない欲求』 が、必要だと思う。 しかし、最近はプライドだけ、やたら高く、中身が追いつてこない人が非常に多く、相手になる程の人はいない。 ちょっと、自分が負けたと思えば、勝つための努力では無く、相手の足を引っ張ることや、邪魔、罠に嵌めてしまうことばかり考える。 そんな、くだらない人に負ける訳がない。 僕は、 『自意識過剰な人』 は、この平均程度をわずかに超える程度の人が、非常に多い。 もちろん、僕も、その中に入っている。 なぜ、自意識過剰になってしまうのか?僕なりの解釈では、たいした努力をしなかったのにも拘らず、『 たまたま』 人より、上手にできてしまったことが原因じゃないかと思う。 過剰に自分の評価を自分だけで、勝手に高めてしまう(自惚れる)。 それが、自意識過剰な人になってしまう要因だと思う。 だから、自意識過剰な人は、 『自分より上を見ずに、自分より下を見る。』 自分が、周囲の人より上に立っていることのみが重要で、自分が人より、下になる場面は避けるし、目を伏せてしまう。 『井の中の蛙・・・』 が、正しく自意識過剰な人だ。 それならば、そんな 『自意識過剰な人』 と上手く付き合うために、僕は 『力で押さえつける。』 もしくは、 『話半分、ほとんど無視』 の、どちらかの対応をしている。 前

子供と大人の違いって何?

よく、仕事やプライベートでも、 「子供じゃないんだから。」や「子供っぽい。」 など、話に出てくることがあるけれど、子供と大人の違いは何だろう? 年齢を重ね、20才になったら、大人 『成人』 に、なるけれど、それが本当の大人と子供の境目ではないと思う。 僕には、正しい境目がわからないけれど、世間で一般的には、 『自立した時(親の力を借りずに)』 が、境目にされるケースが多い様な気がする。 でも、親の力(七光り)を借りたにしても、立派に仕事をしている大人もいるし、未成年や学生であっても、親の力を借りずに立派に生活している子供?もいる。 境界線が曖昧な 『大人と子供』 だが、 「子供じゃないんだから。」 など、会話によく出てされても、受け手にとって、解釈が違ってくるだけだと思う。 受け手の解釈が違えば、本意は伝わらずに、話の無駄とまでは言わないけれど、それに近い物がある。 この、 『大人と子供』 の境界線は、絶対に定まらないし、解釈の違いは、埋まらないと思う。 それでも、構わないと思う。 僕は、僕が会話で出す 『大人と子供』 の境界線を伝え、相手に理解して貰えるように、僕が努力すれば良いだけだから。 そして、僕の解釈では、 『大人』 とは、 『守るべきもの』 ができた時だと思う。 (決して、結婚して、家族ができた時に、守るものができるわけではない。) 家族であっても、友達であっても、同僚や部下であっても、構わない。 『守られる側』 から、 『守る側』 に変わった時、人は、 『大人』 になるんだと思う。 それは、 『誰かを守りたい』 そんな思いだけでも、関係ないと思う。 いくら、 『体』 だけが大人になっても、 『誰かに守られることに安心(慣れたまま)』 では、まだまだ、子供だ。 例え、生活が自立しているにしても、人に頼ってばかりでは、子供だと思う。 僕は、せめて家族には頼られ存在になりたいと思う。 そのために、自分を犠牲にするという訳ではない。 もちろん、時には、自分を犠牲にする場合もあるかも知れないが、それ以上の何かを見つけた時、 『本当の大人』 になるんだと、僕は、思っている。 それは、人によって違うと思う。家族の笑顔だったり、裕福な生活だったりするかもしれない。 『守りたい』 という、思いと、自分

責任が重くて、つらい。

昨日、責任感についてのブログを書いている際、適した画像は、ないか検索していた時、責任感に押しつぶされそうな画像を見つけ、責任感があることは、良いことだけど、責任感に押しつぶされそうになっては、本末転倒だと思う。 今日は、昨日の続きみたいなものだ。 昨日のブログ『プロ意識を持つだけで、責任感が身につく。』 僕は、 責任感を楽しんで欲しい と考えている。 『責任』 は、確かに重いけれど、決して、一人で抱えるものではない。 真面目な人ほど、 『責任』 を一人で抱え込んでしまいやすいけれど、それは間違いだ。 一人で何もかもしようと思っても、できることに限界はある。自分の限界に近づけば近づくほど、プレッシャーとなり、ストレスがたまる一方になってしまう。 以前書いた『 ストレスをプラスにする。 』 どころではなくなってしまう。 もっと、仲間や同僚を信用して、任せていこう。 一人で、抱え込んでしまうのは、極論かも知れないが、仲間や同僚を信用していないと同じことだ。 もちろん、信用できない場合もあるかも知れない。しかし、信用できないと思う時は、危険信号が点滅している。 プレッシャーに負けかかっている証拠だ。 そんな時は、ひと呼吸おいてから、なぜ、信用できないのか理由を探ろう。 「まだ、未熟なのか?できるけど、やらないのか?」 など、自分がなぜ信用できないと思うのかをしろう。 ここで、 信用できないから、自分でやった方が早い。正確だ。などと、自惚れて、仕事を取り返してしまってはいけない。 信用できない理由がわかれば、改善策が見えてくる。 例えば、 『未熟』 であれば、経験をつませ、成熟させる。もし、時間的な余裕がなければ、任せながらも、重要なポイントに差し掛かった時に手を貸す。得意なことを任せる。など考えられるし、 やる気がないのであれば、 『なぜ、やる気がないのか?』 理由を探れば、「本当は別の仕事をしたい。僻んでいる。信用されてないことに気付いている。」など、原因があり、それを取り除くことで、今まで以上の力になってくれるはず。 仕事は、決して一人で行うものではない。 『何でもできて、他に変わりがいない人』 は、 『仕事ができる人』 ではない。 むしろ、自惚れているだけで、 「仕事が中途半端にしかできない人。」 だ。 (芸

「すみません。」が、口癖になってない?

僕の同僚に、 「すみません。」 が、口癖の人がいる。 これまで出会った人の中にも「すみせん。」が、口癖の人は、案外多かった。 何かを貰っても、用事があって声を掛ける時も、そして、怒られても、いつでも「すみません。」 「すみません。」が、口癖の人は、大体、気が弱く、自分に自信を持てない人に多いと思う。 気持ちは、わからなくはないけれど、「すみません。」が口癖になってしまうと、気分が滅入ってしまうんじゃないかと心配になってしまう。 実際、暗くなっている人が多い。 これまでの僕の部下にも、現在の同僚にも、悪いことをしたわけじゃないから、「すみません。」ではなく、 「ありがとう。」 に言い換えた方が良いよと伝えている。 (間違いや失敗した時も、教えてくれて「ありがとう。」の意味で「ありがとう。」で、いいと思う。) そうすることで、気分も明るくなるし、相手にも良い印象を与えるから、「ありがとう。」を意識して使うように進めるけれど、そんな話を聞いた後にも、「すみません。」の一言が。 あ~、やっぱり、重症の人が多い。 意識するだけでも、最初の一歩 にはなる。自分で、「すみません。」が、口癖だと思ったら、「ありがとう。」に、言い換えようと思うことから、始めよう。 そして、次に自分の得 意なこと、長所を伸ばそう。 苦手なことを無くして、自分に自信が持てるようになれば、自然と「ありがとう。」が、口癖になっているとは思うけど、苦手なことや短所を改善していくことは、簡単なことではない。 しかし、自分の得意なこと、長所を伸ばすことは決して難しいことではない。 積極的に得意なことを行い、経験を積むことで、さらに磨きがかかる。 最初は、一部分かも知れないけれど、周りから頼りにされると、『 自分に自信がついてくる』 自信がついてくると、今まで苦手にしていたことにもチャレンジしたくなり、益々 『自分に自信がついてくる』 そんな良いスパイラルにハマると良いんだけれど。 しかし、仕事を選ぶことができずに、苦手なことばかり、やらなければいけない時もある。 そんな時には、毎日、本当に小さな目標を持つべき。 今の自分が少し、ちょっと、背伸びするだけで、達成できる、本当に小さな目標を。 毎日、毎日、自分が一歩ずつ進んでいる実感を得ることで、

イメージトレーニングは、どんな仕事でも必要。

僕は、子供達に、 「人には、みんな超能力があるんだ。」 と、よく話をしていた。 もちろん、スプーンやフォークを曲げるとかではない。 「自分が想像できることは、必ずできる。なんでも、 『できない。』 じゃなく、 『できる』 と思いなさい。」と。 そして、子供達への宿題として 「毎日、明日の楽しみ、したいこと。」 を考えてから寝るよう、約束をしていた。 寝る前に、話を聞いてから「おやすみ」が、日課だった。 明日をワクワクして、迎えて欲しいと考えたからだ。 小さかった頃は、通じていたが、最近は、どうだろう。超能力なんてと、馬鹿にされるかもしれない。 でも、今でも、僕は、そう信じている。 人には、予知能力があると。 仕事でも、同様だ。自分が描く、『 将来』『ポジション』『仕事のあり方』 など、想像できないことは、実現しない。 しかい、想像できることは、必ず実現できると信じている。 もちろん、 『タイムマシーン』 や 『どこでもドア』 など、想像できても、中々、実現できないこともある。 想像を実現するためには 、どれだけ 『リアル』 に想像できるかだ。 『タイムマシーン』 や 『どこでもドア』 を使用している自分をリアルに想像できるだろうか。 アニメの中のタイムマシーンやどこでもドアを使用しているだけじゃないだろうか。 そこには、あったらいいな。できたらいいな。程度にしか思っていないからだと思う。 仕事で、イメージトレーニングする時は、 できるだけリアル に行う必要がある。 例えば、明日の折衝が上手くいったらいいな。だけでは、どうなるかはわからない。 しかし、イメージの中で、相手を想像し、実際の会話の流れも想像していく。 結果、 成功に終わるイメージ をリアルに想像できたなら、きっと 成功に終わる はずだ。 できれば、途中で相手の機嫌を損ねた。準備すべきものが足りなかった。など、単に上手くいくだけではなく、実際に起こり得るトラブルも含め、よりリアルに想像するべきだ。 そうすることで、トラブルを未然に防ぐことや迅速な対応ができるようになり、イメージ通りに進む可能性が高くなる。 僕は、 何事も経験ほど重要 なことはないと思っている。 その経験をイメージトレーニングすることで、一度に数倍積むことができ、人より

仕事が合わない。

自分が、本当にやりたかった仕事に就き、実際の仕事内容も充実して、全てが納得、満足している人は、極僅かじゃないだろうか。 みんな、それぞれ、給与・待遇・仕事内容・人間関係などの悩みが必ずあり、それでも仕事を続けていると思う。 もちろん、僕にも悩みはある。今現在の給与も、以前の仕事をしていた時の3分の1位で、家族にも申し訳ないと、日々感じている。 しかし、僕の場合、色々な事情があり、今の仕事を投げ出すわけにはいかない。 以前、僕の友人がプロのスポーツ選手になったことがある。 その友人は、同じスポーツをしている僕たちとは、次元が違い(別格)で、プロへ転向する話を聞いた時、僕を含め、周りのみんなも納得したほどだった。 友人もその競技が本当に好きだった。 しかし、友人がプロに転向してから、1・2年したころ、友人が悩み始めた。 最初は、趣味の延長でお金を稼ぐこともでき、天職と感じていたはずが、次第にプロのスポーツ選手として、スポンサーから、結果を求められるプレッシャーが原因だった。 元々、自由気ままな友人にとって、自分が乗り気になれない大会にでること自体、楽しいことではなかった。 しかし、多額のスポンサー料を貰うからには、スポンサーの期待や意向に沿わなければいけない。 好きだったはずのスポーツが、嫌いになってしまった。 どうしても、その二つの狭間で悩み続け、結果、僕の友人は、プロを捨てた。 僕は、彼らしいと思った。そして、以前の自由きままな友人に戻り、ホッとした。 本当は、彼を叱咤激励して、プロの道を極めるように後押しするべきだったのかもしれない。 しかし、僕は、友人と一緒に遊びで、そのスポーツをしに行った時、 「愚痴おやじは、いいよな。楽しそうで。趣味のままの方がよかった。」 と、ふと口にした。 20年以上たった今でも、忘れられない言葉だ。 だからこそ、友人には、得意なスポーツを心底、楽しんで欲しいと思ったし、一緒に楽しみたいと思った。 そんなことがあり、僕は、友人の決断に納得した。 今でも、友人は、そのスポーツを楽しんでいる。最近は年齢が年齢なのであれだが、ちょっと前までは、友人を知らない人もレベルの違いを感じたはずだ。 楽しみながら、自由にプレイする友人は、プロの肩書がなくても、輝き、人の目をひいた。

努力は、過去形。そして、第三者が使う誉め言葉。

僕は、 『努力』 は、現在進行形ではなく、過去形だと考えている。 そして、自分への評価ではなく、他人からの評価だと思う。 『努力しているのに』 と、自分自身で感じるときは、心が負けそうになっている時だ。 そんな時は、まだまだ道は長い。先が見えなく、このまま頑張っていいのかわからなくなり、迷っている証だ。 一度、立ち止まって、自分が歩んできた道、スタート・ゴール。そして、自分の現在の位置を確認しよう。 スタートからゴールへ向かう道は、最短距離でなくて構わない。険しく、辛い最短距離でも、なだらか遠回りの道でもゴールへ辿り着くことに変わりはない。 そして、現在の自分の位置を確認しよう。自分の位置を知らなければ、迷って当然だ。 そのまま進んでも、遭難してしまう。 山で遭難した時も仕事も同様だ。 迷った時には、立ち止まり、無駄に体力を使わず、冷静な判断が求められる。 だからこそ、 『努力しているのに』 と感じたら、一度立ち止まり、自分が歩んできた道、スタート・ゴール。そして、自分の現在の位置を確認することが大事だと思う。 だからこそ、 『努力』 が頭を過る時は、まだ道半ばだ。 道半ばでは、 『努力』 ではない。 『努力中』 だ。 『努力中』 を 『努力』 とは言わない。 ゴールしてこそ、 『努力』 したと言える。 ゴールにできなければ、 『無駄な努力』 になってしまう。 実際には、ゴールできなくても、その経験が知識になり、次に進む道への糧になる。 僕は、 『無駄な努力』 は、無いと考えている。 そして、ゴールに辿り着いた人は、ゴールした喜びや達成感で、自分が 『努力』 したとは、感じない。 例え、険しく、長い道だっとしても、 「夢中で取組み、気付いたら、ゴールしていた。」 と、思うはず。 自分自身で 『努力』 した結果が、ゴールに辿り着いたとは、思わないと思う。 しかし、第三者は、ゴールした人への 『賞賛』 や 『羨望』 として、 『努力』 という言葉を使う。 時々、 「努力はしているのに」 など、マイナス的な言葉もあるが、それでも、決して、その人を馬鹿にしては、使わない。 その人のことを認め、 『応援』 している時に出てくる言葉だ。 だから、僕は、道半ばでも 『努力』 という言葉を使ってもいいのは、第三者だ

先が見えなくなったら。

昨日のストレスについての、僕なりの思いを書いて、僕がどん底から、立ち上がった切っ掛けをどうしても伝えたくなった。 僕は、プライベートと仕事(特にプライベート)で、自分自身を見失い、自暴自棄に陥った時がある。 以前、不幸関連(仏事)の仕事をしていた時がある。 その時はまだ若く、お客様から、知識の少なさや見た目(若かったので)から、信用されにくく、営業の仕事が上手くいってなかった。 営業は、結果が全てなので、結果がでない営業マンに居場所はない。 かろうじて首になりはしなかったが、上司や先輩のプレッシャーは半端なかった。 そんな時に親友を立て続けに亡くし(交通事故・突然死)僕が人の死を商売にしているから、親友が死んでしまったのではないかと考えるようになり、沈んでいってしまった。 そんな自暴自棄に陥り、何事も暗く考える僕に愛想をつかし、当時、付き合っていた彼女とも距離が開いて行ってしまった。 真剣に僕のことを考え、そばに寄り添ってくれる彼女に甘えて、愚痴ばかり言ってしまった。 聞く耳も持たずに、どこにも出かける気もなく、愛想をつかすのは当たり前だと思う。 とにかく、暗くなり過ぎた。が、当時の僕にわかることもなく、 「全てが奪われてしまった」 と思い、 「僕はこの世にいるだけで、周りを不幸にする。なら、一人で誰にも関わりたくない。」 と、考えるようになってしまった。 幼少期の家庭環境も恵まれず、実の親ですら信用できなくなった時期もあり、余計にそう考えてしまったのかも知れない。 今となっては、笑い話だが、当時は真剣にそう考えた。 暗い話は、ここまでにして、そこから僕が立ち直った切っ掛けは、大したことではない。 そんな自暴自棄だから、当然、寝ることもできなくなっていた。 「寝よう。寝なきゃだめだ。」 と、思えば思うほど、眠れない。 部屋の電気を点けたり、消したりを繰り返していた。 電気を消した暗い部屋で、さっきまで点いていた電気の残像が見えた。 普段は何も感じないことかも知れないけれど、僕には、 『希望の光』 に見えた。 自分でも何とかしなきゃと考えていたのかもしれないが、 『たとえ、今は真っ暗でも、進めば明かりが待っている』 と、思い、ここで立ち止まるんではなく、前に進もうと思えた。 こんな、どうでもいい切っ掛けが

人のせい「自分は悪くない」では、未来がない。

誰しも、失敗した時に、自分に責任があると思いたくない。ついつい、誰かのせいにしてしまう。 開き直って生きている人は別かも知れないが、大なり小なり 『自分は悪くない』 と、思うことはしょうがないことだと思う。 しかし、自分を成長させるためにも、意識して、全てのことは、 『自分が招いたこと』 だと考えてみよう。 自分を成長させるためには、全てのことに 『自分に責任があり、自分の行い、考え方を変えることで防ぐことができた』 と、考えよう。 例えば、 「納品数通りそろえたから、そのまま持って行って大丈夫。」 と言われ、そのまま納品したら数量に間違いがあったとしても 『自分が再確認を行ったから、数量を間違えた』 と、考えれば、次からは 『確認を怠らないようにしよう』 と思うし、極端だが、 『理不尽に怒られた』 にしても、 『雰囲気をわからずにその場に近づいた自分が悪い』 と思えば、 『周囲の雰囲気を感じとろう』 と、考えることができる。 『機嫌が悪く、理不尽だ』 とだけ、思えば、又繰り返される可能性が高い。 例え、 『他人が悪くても、他人を変えることは簡単なことじゃない。』 『自分を変えることの方が全然簡単だ。』 すると、これまでの行動、考え方で改善すべきことがわかってくる。 改善すべきことがわかれば、先が明るくなってくる。 たったこれだけで、これまでの失敗を繰り替えしだったことが、同じ失敗を繰り返さなくて済むようになる。 僕は、 『失敗することは、恥ずかしいことだと思わない。』 ただし、 『同じ失敗を繰り返すのはバカだ』 と思う。 同じ失敗を繰り返さないためにも、全てのことは、自分に責任があると考えよう。 ただ、自分に責任があると思いすぎると、 『自分はダメな人間だ』 と、落ち込んでしまう。 そうすると、成長どころではなく、委縮した分、衰退してしまう。 この考え方は、自分を卑下するためではなく、自分を成長させるための考え方なので、時々、ご褒美として成功したことも、全て自分に責任があると思おう。 例え、同僚が仕事で成果をあげた時も、 『自分がサポートしたから』 や、 『勝利の女神に愛されている、自分がそばにいたから』 など、悪いことだけでなく、良いことも自分の責任だと考えよう。 (調子にのりすぎないように)

仕事で、人見知りは損をする。

仕事をする上で、コミュニケーション能力が問われる場面が多々出てくる。 僕は、仕事上はコミュニケーション能力は、普通より、やや上に位置するんじゃないかと思う。 しかし、プライベートでは人見知りが激しい方だと思っている。 仕事とプライベートで、何か意識して気持ちを切り替えている訳ではない。自然と身についたことだ。 もちろん、営業経験が長いのも関係していると思っている。 (営業が、人見知りをしてしまってはどうしようもない。) 何が仕事とプライベートで違うんだろうか考えてはみたが、思い当たる節は特にないけど、いい意味で人をなめているんだと思う。 (決して、馬鹿にしているのではない。) 僕だけかもしれないが、大人が子供に人見知りをすることはあまりないと思う。 それと同じように、自分と同等か、自分の方が上だと思うくらいで、ちょうど良いんじゃないだろうか。 (言葉使いや礼儀はちゃんとわきまえた上で。) 人は本能的にどちらが上か比べてしまうものだと思う。自分と同等であれば、自然にどちらが上か下か見極めようとし、その結果がわかるまでコミュニケーションを取りづらかったり、自分より上だと感じると、上の人間の反応を気にするあまり、同じくコミュニケーションが取りづらいんだと思う。 しかし、自分の方が立場が上だと感じると、子供と接するように自らコミュニケーションを取ろうとするものだと思う。 (子供から支持されるのを待っている大人はいないと思おう。) あくまでも、僕の持論だが。 そう考えると、人をなめた位が、ちょうど良いんじゃないかと思う。 僕は、年だけは上なので、そう、思いやすいのかもしれないけれど・・・。 もし、性格的にそう思いづらいのであれば、実際の仕事で自分が誰にも負けないことを作るべきだと思う。 この仕事は、周りにいる人より、自分が優れていると思うえば、最初は、その仕事を行う時に、自分の優位性を感じ、コミュニケーションを取りはじめ、次第に様々な場面でもコミュニケーションが取りやすくなると思う。 「人として、自分が上だ。」 ではなく、 「この場面、仕事、作業は、自分が上だ。」 と、思うだけでも違うと思う。 よく、得意だったり、好きなスポーツの話になると、普段は口数が少なかった人が、急に饒舌になったりするのも同じことだと思う

仕事は好き?

僕は、仕事が大好きだ。しかし、生き甲斐ではない。 仕事をする理由として、『お金を稼ぐ』だと思う。 その域を超え、お金ではなく、「趣味として」や「時間があるから」「興味があるから」などの理由で仕事ができる環境にいる人は、ごくわずだ。 大半の人は賃金を得ることが前提としてあり、その次に、「趣味の延長」「興味がある」などと続くことだと思う。 仕事をすることで、生活ができ、プライベートも充実させることができる。 プライベートを大事にするあまり、仕事が疎かになったのでは、本末転倒だし、その正反対の仕事を中心としすぎ、プライベートが犠牲になるのも本末転倒だ。 仕事、プライベート共にバランスを上手く取れるかどうかが重要だと思う。 その中で、僕もそうだし、多くの人は一日の大半を仕事に費やす。(ブラック企業とか、関係なく) 8時間労働としても、通勤、昼を含めると、10時間以上は、会社に拘束されている人が殆どだと思う。 もちろん、一日数時間の仕事でも生活が成り立つ人もいることと思うが、その人たちは恵まれた環境にいる、ごく僅かな選ばれた人たちなので、別として。 一般的な人が、一日の大半の時間を費やすこととなる仕事だが、どうせやるなら、楽しくやった方が絶対に良いと思う。 仕事が楽しければ、向上心も湧いてくるし、イヤイヤするより覚えるのも早い。 楽しく仕事をするために、一番簡単な方法は『仕事を好きになる』ことだ。 今行っている仕事が嫌いな場合でも、小さくても構わない(通勤が楽・給与が高いなど)どこか好きな所を探しだし、そこから好きを拡げていくうちに仕事が好きになってくる。 そうすると、仕事が楽しくなる。楽しくなると『給与も上がる』『拘束時間を少なく出来る』など、プライベートに費やす時間とお金が増えてくる。 プライベートも充実し、リフレッシュができ、更に仕事が楽しくなる。 と、相乗効果が生まれてくる。 よく、仕事よりもプライベートが大事だからと仕事を疎かにする人を見かけるが、極僅かの選ばれた人は除外すると、本当にプライベートが充実しているか疑問符がついてしまう。 どちらかと言うと『充実している』と、思い込んでいるだけで、実際は小さな世界での小さな充実でしかないような気がする。 もっと広く見渡し、今以上に充実した生活をしたいと僕は思

パワハラにあったら、どうする?

昨日の続きで、会社内の人間関係で深刻なのが 『パワハラ』 じゃないかと思う。 ただ、僕には、パワハラをどう解決していいのかよくわからないのが現状だ。 以前の会社で、僕自身も部下に対して、横柄な態度をしていた時もある。転職を進めた経験もあるのが事実だ。 その時は、1年位一緒に仕事をしていたが、中々仕事を覚えず、隠し事やウソもあり、お互いにこれ以上一緒に仕事をしても時間の無駄だと、 僕自身が判断し、転職の話を切り出した。 しかし、立場が変わった今となって考えると、仕事の覚えが悪かったのは、僕の教え方や 仕事に興味を持たせることができなかった からだと思うし、隠し事やウソをつかせてしまったのも、 気軽に相談や連絡できない環境を作ってしまった、僕に原因 があったのだと思う。 ただ、僕の場合は、立場が変わり、視点が変わったからこそ、そこに気付いただけであって、もし、今も同じ仕事、立場であったら、気付かずにいたかもしれない。 パワハラで悩んでいる人も、僕と同じ上司を持ってしまったばかりに、仕事での人間関係に疲れてしまっているかもしれないが、上司がそこに気付くことはないと思った方が良い。 他人を変えることは、簡単なことじゃない。なら、 自分の環境(仕事)を変える か、 自分を変える かのどちらかの選択になってしまう。 環境を変えるのは簡単だが、 マイナス思考的な辞め方 をしてしまうと、次も 負の環境を招きやすい と思う。原因は何であれ、せめて「自分のやりたかった仕事は別にある。」「自分の成長の為。」など、 気持ちだけはプラス思考 でいて欲しい。 そして、自分を変えるには、パワハラ上司はある程度聞き流すしかないと思う。 特に、怒っている時などは、意見も何もなく、聞き流し、上司が冷静な時に、少しづつ自分が変化していることを認識させるしかない。 ちょっとした 、反応の速さ や 言葉使い (お世辞ではない)の変化などで、上司は変化に気づくはず。 上司と言う生き物は、会社の利益や経費などのバランス、効率などを計算しながら仕事をしている。 会社は、利益を確保し続けなければ、破綻してしまうから。 その際に、どうしても過剰な期待(夢や理想に近いかも)もしてしまう。勝手に期待していながらも、期待に応えてくれない部下を目の前にすると小言の一つも言っ

本当にできないのか?

すぐに、 「できない。」 と言う人がいるけど、本当にできないんだろうか。 大体は、子供と一緒で、考えることが面倒だったり、やりたくないだけだったりすると思う。 「宿題ができない。」などと、子供であれば、親に叱られながらも、教えられて宿題を終えることができる。(大抵は、教えるほどではなく、自分でちょっと考えるだけで終わったりするけど。) しかし、仕事となるとそうはいかない。新入社員であれば、上司や先輩が教えてくれるかもしれないが、ある程度仕事に慣れてきたら、自ら聞きに行かなければ、誰も教えてくれない。 恥ずかしいやプライドなど捨て、素直に聞ければ良いのだけれど。 まだ、人間関係を構築できずに 「教えて」 と素直に言えないこともあるし、同じことを何度も聞き、相手から嫌な顔をされたり、体よく断られたりした経験があったりすると、だんだん聞き辛くなってしまう。悪循環の始まりだ。 今度は、『 できない』 ではなく、 「今、忙しい」 や 「別の仕事がある」 など、 言い訳 が始まり、 仕事放棄 の始まりにもなってしまう。 できないこと、わからないことは、先ずは自分で、 できる方法 や 調べること から始めよう。 できる可能性・方法を考えなければ、いつまでたっても 『できない』 で終わってしまう。 それでも、できなかったり、わからないことは多々あるはず。 そんな時は、 自分なりの考え を持って、「こうしたいけど、それはあっているのか?」「調べたが、これでいいのか?」など、聞き方を変化させると、上司や先輩の教え方も変わるし、自分の見方も変わってくるはず。 もともと、人は誰でも 「誰かに何かを教えたい。」 と言う、 欲求 を持っている。 ただ、同じことを何度もだったり、タイミングが悪かったりで、素直に教えてくれない時があるだけで。 相手が本来持っている 「教えたい欲求」 をくすぐりながら、 出過ぎない自分なりの主張 を持っていると、次第に聞かないことまで教えてくれるようになる。 それを面倒くさがらずに、自分に 『チャンスが来た』 と思おう。 立場は上司部下や先輩後輩であっても、自分のブレーンとして、利用するチャンスだ。 一人で何もかも覚え、経験することで、レベルアップを図れれば、それが本当の実力かもしれない。しかし、人や仕

仕事が早い?遅い?

仕事が早い人と遅い人がいる。この違いは何なのか? あくまでも、仕事の話であり、作業の話ではない。 作業を早くするには、経験、得手不得手があり、また、早くても雑だったり、遅くても丁寧だったり、求められるものが変わってくるから、それに合わせて作業を行わなければならない。 しかし、仕事が早い、遅いの違いは、全体を把握しているのか、一部のみしか見ていないかの違いだと思う。 仕事全体を見ていれば、次に行わなければいけないこと、必要になろうであろうことなど、準備すべきことがわかり、段取りよく進めることができる。 しかし、一部しか見えてないと、次の指示があるまで待ってしまったり、作業中に別の作業が必要になり、その作業に時間を取られてしまったりと、後手後手での仕事になってしまう。 結果、仕事が遅い人の烙印が押されてしまう。 職人の世界でよく 『段取り八分』 と、言われるが、職人問わず、仕事を行う上で、実際にそうだと思う。 仕事に着手するのが早くても、全体を見て、必要なこと、不必要なことを判断することで、結果的には仕事を早く終えることができるし、逆に仕事の着手が早くてもその都度、その都度、次に何をするのか考えていては、結果的に仕事を終えるのが遅くなってしまう。 僕は、仕事は早くできるに越したことは無いと思う。(あくまでも作業ではなく、仕事) 仕事を進める前に一呼吸し、スポーツ選手が行う 『イメージトレーニング』 を行い、仕事の終わりまでの流れ・最良の結果を想像してから、仕事を進める癖をつけるだけでも、全然違う結果になると思う。 もちろん、イメージ通りに最良の結果に結びつかないかもしれない。しかし、最良の結果をイメージできないと最良の結果にたどり着けない。 最良の結果をイメージできるから こそ、 最良の結果への道が見えてくる はずだと思う。 しかし、僕は、最良の結果も、そこにたどり着ける道筋も想像できずに仕事を進めてしまう時も多々ある。 そんな時は、開き直って、今の自分が想像できるところで妥協するしかない。 人や経験などによって、見える先 (奥行?)は変わってくる。 今の自分のレベルでは、そこまででもいいじゃないかと自分に言い聞かせ、少しづつ、見える先を伸ばしていけば充分だと思う。

後悔は、必ずするもの。

後悔しない人はいないと思う。 僕もなるべく、後悔しないようにしようと心掛けているけれど、やっぱり後悔してしまう。 実際に、時間を戻すことは出来ないから、後悔してもしょうがない。 よく、後悔しない生き方をしている人もいるだろう。今を全力で過ごし、前のみを向いているなら、後悔する必要はないかもしれない。 自分のひとつひとつに自信を持ち、最善をつくしているなら、そうかもしれない。 しかし、完璧な人間はいないと思う。 後悔はするべきだと思う。ただし、後を引きずらなければ。 「あの時、あーしていれば。」と、いつまでも考えてもしょうがない。できなかったことはしょうがない。 同じミスを二度と繰り返さないように、反省すればいい。 みんな、失敗よりも成功が多いと思う。失敗しても、すぐに直すことができ、同じミスを繰り返さなければ必ず成功が多くなるはず。(いつも新しい事だけを追求しているのではなければ) 後悔をしても、引きずらずにしっかりと反省することが一番大事だと思う。 後悔を引きずってしまうと、悪いイメージにとらわれてしまう。 人は不思議に、いいイメージを常に持っていると、いいことが舞い込み、悪いイメージに囚われすぎてしまうと、悪いことが舞い込んでしまう。 後悔しても、反省をしっかりとして、次は成功するイメージを持ち、後悔を引きずらないようにしよう。 僕は、前だけは常に見て行こうと思っている。 後ろを見ながら、歩くと転んでしまうから、やっぱり前をしっかりと見て、進んでいこう。時々は、来た道(過去)を振り返ることも必要だけれど。