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個性って、なんだろう?

ここ最近、個性を重んじる傾向が、変な方向に向かって、進んでいるような気がする。 個性的なことは、決して悪いことではない。僕も、「個性的だ」と、よく言われる。 人には、それぞれの感性や感情があり、歩んできた道のりがある。 そんな人それぞれの個性が集まることで、新しいものが生まれてくるんだと思う。 個性がない、画一的な人の集まりでは、1+1=2にしかならないけれど、個性が集まることで、3にも4にもなってくる。 個性には、そんな力が秘められている。 しかし、最近は、個性の解釈を捻じ曲げ、変な方向へ導こうとする人たちが多く見受けられる。 代表的なのが、子供へ個性を強要する親だと思う。 髪が長い男の子など、一目で性別が判断できない子が増えてきている。 百歩譲って、子供が自分で選んでいるなら、構わない。 しかし、殆どが、親の趣味(希望?)による、強制でしかない。 そんな親に限って、「今は、個性が大事(大切)」や「うちの子は、みんなと違う」など、勘違いな自論を語る。 僕は、そんな人(親)を見ると、「自分の個性のために、子供を利用しているだけで、子供はアクセサリーやおもちゃじゃない」と、つくづく思う。 (僕の意見も、勘違いな自論かもしれないけれど。) しかし、小さな頃から慣ら(洗脳)されてしまうと、本人も気付いた時には、自分の体の性と、気持ちの性との違いに悩んでしまうんじゃないか? 『性同一性障害』の中には、親のエゴに犠牲となった子供たちも少なくないと思う。 これは、『性同一性障害』への偏見ではない。もし、自分の子供が、体と心の性が違っても自分の子供であることは変わらないし、堂々として欲しいと思う。 僕は、個性を強制することが大間違いだと思う。 これは、家庭でも学校でも会社でも同じだ。 強烈な個性の人もいれば、あまり個性が目立たない人もいる。 でも、人それぞれ経験してきた過去は違う。同じ経験をした人は、誰一人といない。 感じ方、行動、表情など人それぞれ違うはず。 だから、誰にでも個性があり、個性的だ。それを必要以上に求めることは間違いだし、必要以上に個性を主張する必要もない。 ただ、自分が思ったことや感じたことを素直に表現するだけで、充分、個性を発揮することができる。 求めらて出す個性は、本当の個性じゃない

本当に変わるためには、何をする?

もし、今の自分を変え、脱皮したいと考えているなら、先ず、するべきことは 『自分を褒める』 ことだと思う。 自分を変えたいと思う時は、大抵、上手くいってない時だと思うけど、そこで、クヨクヨしたり、どうしたら変われるのかを考えても仕方がない。 どんなことでもいい。「上手くいかなくても、頑張れる自分は凄い。」や「イジメに負けずに耐えている自分は偉い。」など、何でもいいから、先ずは、今の自分を褒めよう。 但し、自分で「頑張っているから、少し休憩を。」など、甘やかすのは別問題だ。 第三者の立場で、今の自分の言動を否定せず、認め褒めよう。 (本当は、他人が褒めてくれるのが一番の特効薬かもしてないけれど。) 人は、誰でも褒められると嬉しくなる。 嬉しくなると、さらに 『褒められたい』 欲求が生まれ、今までより、 『もっと褒められるためには、どうしらいいのか?』 自然と考える。 子供を褒めて育てるのと同じ要領だ。 自分を貶すことで奮起できる性格の人もいるかもしれないが、そんなに強い人ばかりではない。 (もし、自分が貶されることで奮起できる人であれば、このブログは当てはまらないかもしれない。) 自分を貶して、落ち込んでも変わることはできない。もし、変わるとするとマイナス方面への変化でしかない。 しかし、 『自分を認め、褒める』 ことで、 『もっと褒められるためには、どうしたらいいのか?』 自然に考え、行動がかわるはず。 その一歩を踏み出すことが一番大事なこと。 誰でも、明日、朝起きたら、別人のように変わることは、絶対にない。 今までの自分とちょっとだけ違う考え(プラスな)を持ち、ほんの少しの言動の変化が、大きな変化(成長)に繋がっていく。 そのためにも、 『先ずは、自分を自分で褒めよう。』 気付くと、周りの人も 『自分を褒めてくれ』 変化が加速して行くはず。 しつこいけれど、 『絶対に自分を甘やかさない(甘えない)』 ように。

話をしっかりと聞く。

僕のブログに、ちょくちょく出てくる「いつも怒られている同僚」が、今日もまた、上司から、怒られていた。 ミスが原因(本当にミスが多い。)だが、なぜ、そんなにミスを繰り返すのか、僕なりに観察した結果、 『人の話をキチンと聞いていない』 ことが、一番の要因だと思う。 ただ、もっと根深い原因に、 『人とのコミュニケーションが苦手』 や 『バカにされたくない(知ったかぶり)』 などもあるかも知れないけれど、ミスの原因としては 『人の話をキチンと聞いていない』 ことだ。 僕と、話をしている時も、話半分で、すぐに行動をしようとする。 気持ち的には、 『前向き』 だったり、 『何かしなくてはいけない。』 などの悪いことではないのかもしれない。 しかし、話半分なので、取るべき行動が間違っている。 案の定、ミスを犯したり、余計な(ムダ)時間が、過ぎてしまう。 人の話を聞くことは、難しいことではないはず。子供でもできる人としての基本的な能力だ。 しかし、話を理解するのは、簡単なことではない。 話相手に興味を持たなければいけないからだ。 子供によくある 『テレビやゲームに夢中になって、話をきいていない。』 が、一番わかりやすいと思う。 「はい」と反射的に返事をしても、何を言われているのかまで、わかっていない。 話相手に興味を持たなければ、同じことだ。 頭が良く、理解力があるとかではない。 何を言っているのか、理解できなくても、話相手に興味があれば、その真意や内容を再度、聞き直す(理解しよう)とする行動が自然と出てくるはず。 プライベートでの興味のない相手に話半分は、とやかく言おうとは思わない。 (僕は、そんな知り合いは欲しくないが。) しかし、仕事は違う。 話相手の言葉を理解しなくてはいけない。 そこに 好き嫌いが入る余地はない。 話相手に興味を持ち、話相手が何を望んでいるのか理解しなくてはいけない。 僕は、わからないことは恥ずかしいことではない。わからないことをわからないままにすることこそ、恥ずかしいことだと思うし、そこに見栄やプライド(知らないと思われたくないなど)があるなら、くだらない人間だと思う。 わからないことを認め、理解しようとする努力こそが重要だと思っている。 そのためにも、話相手に興味を持ち、何を望

同僚のミスへの対応。

もし、同僚が 『ミス』 をしたなら、あなたならどうする? これだけの質問なら、その同僚を責めることはないと思う。 しかし、その 『ミス』 のおかげで、あなたにシワ寄せがきた場合にも、同じ対応ができるだろうか? 正直、僕は、その時になって見ないとわからない。 恐らく、多くの人は同じ意見だと思う。 気持ちや身体的に余裕がある際には、笑って許せることでも、余裕がない状況の場合、愚痴の一つや、 『ミス』 を責めることもあると思う。 しかし、余裕がない状況でも、しっかりとフォローできる人になりたいと僕は、思っているし、意識して自分の感情を抑える努力をしている。 人は、誰でも 『ミス』 をする。それは、仕方がないことだし、その 『ミス』 があったからこそ、その 『ミス』 をバネにして成長することができる。 だから、僕はこれまで一度も 『ミス』 を一度もしなかった人よりも、 『ミス』 をし、その 『ミス』 をその帳消しにするための努力をしている人を尊敬している。 (ただ、おなじ 『ミス』 を繰り返すのバカだけど。) そう思っていながらも、いざ自分に影響を及ぼすとなると、冷静さを失ってしまい、あたってしまう時も出てきてしまう。 しかし、それは間違いだと思う。 仕事(会社)にとって、ある程度の 『ミス』 は、折り込み済みだとしても、 『損害』 には変わらない。 その 『損害』 を最小限に抑え、打開策を早急に考え、実行することが必要とされる。 その次に、同じ 『ミス』 を繰り返さないための改善策を考えなくていけない。 あくまでも、 打開策が最優先 だ。 しかし、自分に影響が及ぼされると、その最優先を忘れ、ついつい、その場で責めてしまい、後から冷静になった時に、後悔してしまいがちだ。 でも、他人の 『ミス』 を責めても、何も建設的なことない。 冷静さを失ってしまった、自分の対応も 『ミス』 でしかない。 そのためにも、気持ち的、身体的な余裕は、残しておきたい。 自分に余裕があると、対応も全然違う。 多くの人は、一人で仕事をしている訳ではないと思う。 同僚の 『ミス』 に巻き込まれることも、また、自分が 『ミス』 をし、同僚を巻き込むことも必ずあると思う。 そんな時にも、早急な対応ができるよう、気持ち的にも身体

厳しい上司と優しい上司。

僕が部下を持っていた時、どちらか(間違いなく)というと厳しい上司だった。 今振り返ってみて、少し厳しすぎたかなと思う時もあるけれど、間違ってはいなかったと思う。 自分の部下に、 『仕事を楽しんで欲しい。』『成長して欲しい。』 と、本当に考え、とった行動だ。 ただ、今の人たちを見ていると、厳しい上司よりも、優しい上司の方が、成長しやすいのかなと思う時も、多々ある。 最近の 『怒らずに諭す』 教育方針も関係していると思うけれど、あまり怒られた経験が少ないのか、上司に怒られたときの対応を見ていると、 『悔しい』 や 『見返す』 よりも、臆病になってしまう傾向が強い。 それでは、厳しくしてもしょうがない。 『いいなりになる社員』 を作ることができても、本当の意味での 『仕事ができる社員』 に育てることはできない。 もちろん、全てに優しい上司は、存在しない。 それは、 『仕事は、そんなに甘い物ではないからだ。』 今の時代、会社を維持することすら、容易なことではない。まして、会社を成長させるには、並大抵のことではない。 慣れや油断などから、すぐに、足元をすくわれてしまう。 そうならないためにも、厳しい一面が出るのは、しょうがない。 ただ、僕は、会社の一番の財産は 『人』 だと、思っている。 これは、ブログ用の自分を良い人に見せようとしている訳ではなく、純粋にそう思う。 誰も、一人で生きてはいけない。これまでも多くの人と関わってきたはずだ。 人(社員)を大事にし、人(社員)から、好かれる会社になれば、その波及効果は、大きな力になる。 人(社員)から、嫌われる会社は、悪い意味での波及効果が大きくなり、将来性が見えてこなくなってしまう場合もあると思う。 だからこそ、上司は、 部下が成長する道筋を作らなければいけない。 そのためにも、時代や人材に合わせた部下への対応を考えて行かなければならない時代だと思う。 ただ、僕がこれまで出会った中で、自分勝手に怒る理不尽な上司は、問題外として、厳しい上司が根本的な優しさを持ち、優しい(外面がいい)と思っていた上司の方が、裏の顔を持ち合わせ、部下よりも、自分のことばかり、考えている上司が多かったと思う。 これは、僕の持論だけど、 『厳しい上司は、自分にも厳しい』 し、 『優しい上司は、

食事のマナーも仕事に役立つ。

食事のマナーは、直接ではなくても、仕事に大きく関わってくると思っている。 食事のマナーは、決して難しいものではない。 食事をともにする相手に不快な思いをさせず、 ともに美味しく食事 ができるだけでいい。 本当は、箸の使い方や器の持ち方、食事のスピードなども気を使って損はないけれど、最低限、ともにする相手に不快な思いをさせないことが重要だと思っている。 しかし、人それぞれの感性があり、相手が不快に思うポイントは、違ってくる。 普段と同じように食事をしても、好ましく思ってくれる人もいれば、不快に思う人もいるので、ややこしいけれど、誰にも不快な思いをさせない食事の仕方は、そんなに難しくない。 食事を作ってくれた人に感謝し、美味しく食事をするだけだ。 僕は、動物と人との大きな違いの一つに、 『食事』 が、あると思っている。 人が食べるのは、生きるためなことは動物と同じかもしれない。 しかし、 『食事』 であって、 『エサ』 ではない。 その違いは、美味しく 『食事』 ができるかどうかと、食事を作ってくれた人への 『感謝』 の気持ちを持てるか、だと思う。 もちろん、動物も美味しい物や食べやすい物の違いは、わかり美味しい物がと不味い物が並んでいれば、美味しい物を選択するだろう。 でも、それに拘ることはない。 しかし、人は、一度美味しい物を食べると、その後も同じもの、もしくはそれ以上の 『食事』 を求めてしまう。 その 『欲求』 が、仕事のモチベーションにもつながってくる。 今以上の収入を得、今まで月に一度だった 『豪華な食事』 も、週に一度、毎日と、これまで 『豪華な食事』 だったものを当たり前の 『食事』 にしたいと思うはず。 『食事』 の喜びは、人としての楽しみの一つだと、思っている。 そして、食事のマナーとして、重要なのが 『食事』 を作ってくれた人への『感謝』の気持ちが 『ある』 か 『ない』 かだと思う。 有名なお店に行き、美味しい食事をすると、そのお料理を作った調理人が、どんな人なのか、その調理人が作った他の食事も食べてみたいと思い、 『感謝』 もすることだと思う。 しかし、もっと大事なことは、家族(親や妻など)が作った 『食事』に対しての『感謝』 の気持ちだと思っている。 普段、当たり前に食べる食

毎日、昨日の自分より、成長しよう。

日々、勉強することが大事だし、僕も毎日、何かを吸収し、自分のものにしようとしている。 但し、社会人の勉強は、子供たちのように漢字を練習したり、計算したりではない。 話題作りのために、テレビやネットを流し見するのも勉強の一貫だと思うし、話題や人気のお店に行って見るのも勉強だと思っている。 勉強を難しく考える必要はない。 もちろん、業務に関わることを調べ、自分の知識にすることは、何より優先したい勉強だ。 子供も大人も、日々、勉強し、昨日よりも一歩でも、前進しなくては、いけないのかもしれない。 生まれたての赤ちゃんも、勉強を意識していなくても、日々、何かを覚え、成長している。 ただ、学生までの勉強と、社会人になってからの勉強で大きく違うことは、 『吸収だけではいけない。』 ということだ。 学生までの勉強は、ひたすら 『吸収』 することが重要になってくる。 いつの日か、 『吸収』 した知識を使う機会を待ち、エネルギーを溜めている状態だと思う。 しかし、社会人となれば、勉強で得た知識を 『吸収』 するだけでは、いけない。 むしろ、 『吸収』 した、エネルギー(知識)を放出しなければいけない。 『吸収』 だけでは、何の役にも立たない。その知識を利用するからこそ、自分に付加価値がついてくる。 付加価値がない人は、周りから見て、どうしても物足りなく感じてしまう。 付加価値が、人としての魅力を自分に飾り付けていってくれるはずだ。 そのためにも、これまで溜めたエネルギーだけだは、すぐに使い切ってしまう。 日々、勉強し、エネルギーを随時、補給しながら進んでいくしかない。 そう考えると、 『毎日、何かを勉強しなくてはいけない。』 ということは、非常に困難なことに思ってしまうけれど、そんなに大変なことではない。 むしろ、簡単なことだ。 昨日まで知らなかったことを覚えるだけでいい。 難しいと思うと難しいことになってしまうけれど、簡単だと思えば、簡単にできてくる。 例えば、明日の天気を知ることも勉強の一環にもなるし、知識にもなる。 又、コミュニケーションを取る簡単な知識の一つであり、明日の天気を知ることでコミュニケーションを円滑に進める重要な手段にもなる。 (毎日、天気予報だけ見て、自分が成長したと思うのもあれだけど。)

週の初めは、元気よく。

多くの人は、月曜日が今週の仕事の初日になると思う。僕も同様に、今日が今週の始まりだ。 殆どの人が、自分のプライベート(人生)をより、充実させるために仕事をしていると思う。 休日に趣味などで、クタクタになるまで過ごしている人も多いことだと思う。 プライベートが充実していることは本当に良いことで、僕も憧れるし、僕も今以上にプライベートを充実させたいと思っている。 (こんなブログをしているが、僕は、仕事人間ではない。プライベート重視だ。) プライベートが充実した方が、仕事にも 『やる気』 が出るし、結果的に仕事も充実してくる。 仕事オンリーで、プライベートを犠牲にしている人で、本当に仕事ができる人は、見たことがない。中途半端にできる人は、多々いたけれど。 しかし、僕は、休日の翌日こそ、大事にしている。 休日に疲れ果ててしまうのは、しょうがない。でも、それを職場に引きずってはいけない。 多少、無理をして(空元気)でも、普段以上に元気を出すべきだ。 遊び疲れで、ボーっとするのは、問題外だ。 他人から見て、休日明けに元気が良い姿を見ると、 「この人は、仕事もプライベートも充実しているな。いいリフレッシュしたんだな。」 と、思うけれど、遊び疲れてボーっとした姿を見ると、 「プライベートを大事にするのもいいけれど。いつまでも、子供じゃないんだから。」 と、思ってしまう。 休日は、仕事をしている人、誰にでも与えられてる権利だし、人様々の過ごし方があり、それは自由だ。 ただ、僕は、休日明けに元気な姿を見せている同僚のプライベートや趣味は、気になり、どんな休日を過ごしているか聞きたくなってしまう(僕も、マネしたい)けれど、遊び疲れた姿の同僚のプライベートや趣味は、興味が湧かない。 たぶん、僕だけじゃなく、多くの人は同じ意見を持ってくれると思う。 周り(同僚)の印象は大事にしないといけない。周り(同僚)の印象次第で、自分が優位に仕事を進めることができるか?どうかが、掛かってくる。 仕事をしているからこその休日だから、休日明けには、疲れていても意識して、元気をだそう。 遊び疲れを次の日まで残すのは、本当の意味でプライベートが充実している訳ではない。 例え、疲れていても、気分がスッキリとリフレッシュでき、疲れを引きずらないことこそ、本

どうせミスするなら、攻めてミスしよう。

僕は、小中高とサッカーをしてきた。サッカーは好きなスポーツの一つなんだけど、サッカーを見ていると、いつも思うことがある。 フォワードは、ミスが許されるけれど、ディフェンスは、ミスが絶対に許されない。 フォワードと、ディフェンスの緊張感は雲泥の差じゃないかと思う。 と言う僕は、フォワードだったんだけれど、緊張感もなく、サッカーをしていた訳じゃない。 (フォワードを馬鹿にしている訳ではない。フォワードもミスが絶対に許されない場面も多々ある。) ここで、言いたいのは、仕事に通じる攻めるミスと守るミスの差をわかりやすく説明したいと思い、敢えてサッカーに例えてみた。 フォワードは、シュートミスを繰り返しながら、ゴールを目指し、一度の成功(ゴール)で、勝利に導き、ヒーローになることができる。 しかし、ディフェンスは、決してミスが許されない。たった一度のミスが負けにつながってしまうからだ。 この差は、攻める(開拓)する勇気と守る(維持)する差だと思う。 新しく開拓していく(攻める)には、勇気が必要だ。 時には、失敗するとわかっていても開拓(攻める)なければいけない。 決して、失敗を恐れて開拓(攻める)ことは、できない。 それと、反対にこれまでの状況を維持する(守る)ことは、容易なことではない。 些細な変化にも気を配り、その変化に随時対応しなければいけない。 (会社の売上を維持するのにも、競合他社の価格の変動や、新規参入などに対応出来なければ淘汰されて(負け)しまう。 決して、ミスが許されない。 仕事も同様に、新しい商品開発や業務改善に勇気を持って、どんどんチャレンジするべきだと思う。 そこで犯すミスは、ミスではない。 チャレンジした勇気の証だ。 だからこそ、仕事上の攻めるミスは、どんどんするべきだと思う。 ミスを恐れて攻めることを諦めては、決して勝利することはできない。 サッカーのフォワードと同じように、数多くのミスを繰り返したとしても、たった一度の成功がチーム(会社)を勝利に導くことができるはずだから。 しかし、ディフェンスが、しっかりと守って(維持)してくれるから、攻めること(開拓)できることを忘れてはいけない。 ディフェンスに不安要素があれば、フォワードもディフェンスにまわらなければ、負けるのは、火を見

誰かが『やるはず。』だから、自分は『やらなくてもいい。』

誰もが、他人任せになってしまう。 僕も、ついつい、自分がやらなくても、誰かがやるから、大丈夫だと、勝手に思い込んでしまう。 道に落ちてるゴミを拾う人は、殆どいないと思う。 行事やイベントとして、ゴミを拾うのは、ほぼ強制的なので例外として。 しかし、自分の家や部屋に落ちているゴミは、誰もが拾うはず。 その違いは、自分の テリトリー かどうかだと思う。 (大事にしているかどうかも考えられるけど、今回は敢えて テリトリー とする。) 仕事(職場)でも、同様。 誰かが『やるはず。』だから、自分は『やらなくてもいい。』と思っている内は、仕事(職場)が、自分の テリトリー ではないからだ。 会社や上司に言われるがままの仕事しかできなくて当たり前だ。 そんな仕事をしても、楽しくなるはずがない。実に、勿体ないことだ。 みんな、好き好んで仕事をしている訳ではないけれど、1日の半分近く(最低でも3分の1)を仕事に拘束される。 いくら、プライベートが充実しているとしても、仕事が嫌いで苦痛の時間であれば、3分の2充実していても3分の1は、嫌いで苦痛な時間を過ごすことになる。 やっぱり、勿体ない。 仕事を楽しくすることで、1日の全てが、楽しい日々になるのに。 仕事を楽しくするためにも、仕事(職場)を自分の テリトリー にしてしまおう。 僕は、人間も所詮、動物だと考えている。 縄張り(テリトリー) を本能が求めている。 自分の 縄張り(テリトリー) にいることで、安心できるし、本来の実力を発揮できる。 だったら、仕事(職場)を自分の 縄張り(テリトリー) にしてしまえば、安心して、本来の実力が発揮できるはずだ。 動物が 縄張り(テリトリー) を守るためには、常に巡回し、なにか変化がないか、チェックしている。 もし、なにか変化があった場合、すぐにその原因を探る。そして、解決策を講じる。 (敵が攻め込めば、自分の 縄張り(テリトリー) から、敵を追い出す。など) 仕事(職場)を自分の 縄張り(テリトリー) にするには、同じことをすれば良いだけだ。 自分の仕事(職場)の変化に常に気を配り、変化があれば、その解決策を考え、行動していく。 その変化に気付ければ、自然と仕事(職場)が自分の 縄張り(テリトリー) となり、自然

人の振り見て、我が振り決める。

『人の振り見て、我が振りなおせ』 は、子供たちも知っている、有名なことわざだが、僕は、人の欠点を利用して、自分だけ良ければと考えているよう(あくまでも僕の主観です。)で、印象が悪いので、あえて反対にした 『人の振り見て、我が振り決める』 の方が好きだ。 どちらも、周りの人を良く見て、自分の行動を決めていくことに変わりはない。が、僕は前者の 『人の振り見て、我が振りなおせ』 は 『上から下』『前から後ろ』 を見ている気がする。 見ている方向がマイナス方向なら、自然と自分が進んでいく道もマイナスに向かって行ってしまう。 しかし、後者の 『人の振り見て、我が振り決める』 は 『下から上』『後ろら前』 を見ながら、一歩ずつ確実に前進している印象を持つ。 ただ、僕が言いたいのは、昔ながらの職人のように、何も教えてもらわずに、先輩、上司の仕事っぷりを見て、仕事を覚えることではない。 本当に仕事ができる人の動きを見ていると、無駄な動きが極力ない。 仕事は、全て順調に行くわけではない。 必ず、トラブルや思わぬ横槍など、仕事を妨げることが発生する。 それでも、仕事ができる人は、そういったトラブルさえも想定内として、回避、対応のための準備や時間的な余裕を持っている。 他にも、並行した複数の仕事をこなす、順番や方法など、参考になることが多い。 そんな周りにいる仕事のできる人の行動を真似しない手はない。 同じような行動をしていると、次第に考え方もわかってくるようになる。 「何で、今こんなことをしているの?」から、「こんなことを考えているから、今これをしているのか。」と、なってくる。 考え方までわかってくると、今まで憧れだった存在から、お互いにとって、良いライバルまで成長しているはず。 僕も、 『人の振り見て、我が振り決める』 を実践している。 僕にとって、今の仕事は、数カ月だけれど、十何年続けている先輩の行動をしっかりと真似、十何年の経験を僕のものに(欲張りだけど、1年以内には)しようと思っている。 『夢は大きく』

休日の過ごし方。

人それぞれ、休日の過ごし方はあると思う。 僕の休日は、大体、家族と一緒に過ごすことの方が多い。 僕は、極力、仕事を家庭に持ち込まない。と言うより、持ち込んでいる時間がない。 子供たちと遊んだり、勉強を教えたり、してる内に、気付くと夜になっていることが、殆どだ。 たまには、自分一人の時間が欲しいと思う時もあるけれど、実際、有休などで、平日に一人でいると、何をしていいか解らず、部屋を片付けたりなど、結局、自分の趣味に費やす時間を見失ってしまう。 これはこれで、不満があるわけでも、ストレスが溜まるわけでも(むしろ、ストレス解消になっている)ないので、自分なりには、良い休日の過ごし方だと感じている。 本当は、ブログで、 『自己啓発』 と、謳っているなら、自分磨きのセミナーや交流、勉強をすることで、もっと的確なアドバイスや助言ができるのかもしれないが、このブログは、自由気ままに僕の思ったこと、体験したことから、少しでも、仕事が楽しくなって貰いえればと良いと思い、あくまでも僕の主観的な意見のみ、書いている。 性格上、自分が体験していないことを自分が体験したことのように語ることは、好きじゃないし、する気がない。 時々、偏った話にもなるかもしれないが、それでも僕は、それが切っ掛けで仕事が楽しくなると信じ、伝えたいと思っている。 本題から、少しずれてしまったが、僕は、休日(帰社したら)には、仕事を忘れるに限る。そして、自分が楽しめることをするべきだと思う。 それは、決して、仕事に対して、消極的なわけではない。 人は、集中力に限界がある。 一日で、本当に集中できるのは、2時間くらいしかないし、それを5日も続けたら、クタクタで、その後は惰性で何とか誤魔化しているしかない。 上手く、誤魔化すのもテクニックかも知れない。 しかし、そんな小手先で自分を誤魔化すより、素直に疲れを認め、しっかりと休憩をとる方が合理的だと思う。 自分は、 『24時間、365日、仕事のことだけを考えている。』 なんて、エゴでしかないし、僕には、よっぽど仕事のできない(自分では、仕事ができると思っている、残念な)人としか思えない。 こんなブログをしていると、僕は、仕事一辺倒な人と思うかもしれないが、僕は 『僕の人生を楽しみたい。』 その一環に仕事があるだけだ

忘年会も仕事の一部。

忘年会シーズンが近づいてきた。仕事として、お酒を飲む機会を楽しみにしている人、苦痛としている人など、人それぞれ、だと思う。 僕は、間違いなく前者だ。同僚と飲むことも楽しみだが、それよりも、お酒を飲むことが楽しみだ。 でも、アル中ではない。一人で、しんみりとした、お酒は、僕には飲めない。 晩酌も妻や子供たちがいるからこそ、楽しく、お酒を飲むことができる。 僕は、基本的に楽しいお酒が好きだ。 しかし、気の置ける友人との飲み会なら楽しみだけれど、会社で、仕方なく参加する飲み会は、嫌いと言う人も多い。 嫌いな人は、就業時間を過ぎてまで、上司や同僚に、 『気を使いたくない』 と、言うのが本音だと思う。 でも、僕には、その機会を上手く使わないのは、勿体ないと思う。 世間がよく言う、 『お酒が入って、その人の本音や素顔を見ることができる。』 からでは、ない。 もちろん、会社のお金で、タダ酒が飲めるからでもない。 本音や素顔を見れるに、かなり近いけれど、その人の限界を知ることができるからだ。 僕のキャラ的に通用するのかも知れない(僕が通用すると思っているだけかも)が、お酒に酔ったふりをして、その人の普段見ることができない、深い所を探っていく。 そうすると、どこまで入り込んでいいのか、ダメなのか、その人の限界が見えてくる。 深入りしすぎると、それを嫌うのは、当たり前で、誰でも他人が入り込むことを拒む限界がある。 その限界ぎりぎりまで、入り込むことによって、これまで以上の関係が築くことができる。 人は、心の開く位置を 『この人はそこまで、この人にはここまで』 と、その人によって、境界線を引いている。 しかし、お酒の力を借りたにしても、今まで引かれていた境界線を越え、更に近づくことで、今まで以上に心を開いてくれる。 一度、入り込むと、その後の普段の仕事でも、今までより、一歩も二歩も親密な人間関係になり、円満に仕事を進めることができる。 だからこそ、僕は、こんな機会を得る、忘年会シーズンは、楽しみでしょうがない。 もちろん、やり方を間違えると、ニュースにもなった、相撲界のように、険悪になってしまう。 僕は、今回の相撲界の問題となった場にいないので、詳細はわからないが、相手(今回は、日馬富士)の限界を探る行為に、相手に対する尊

今の自分の位置を知るには。

自分の位置を把握しながら、仕事をしている人は、どれくらいいるのだろう。 位置と言っても、「上から何番目だ。」「下から何番目だ。」の、位置ではなく、以前のブログ『 「夢」や「目標」を持とう。 』で、書いたように、 『夢や目標 (通過点、もしくはゴール) 』 までの道のりを歩んでいる、自分自身の現在地だ。 自分の位置を知らなければ、ゴールだけ見えていても、現在地がわからなければ、今、歩んでいる道が遠回りだったり、行き止まりだったりするのに気付くことができない。 実際は、遠回りでも、『この道は、 近道なはず だ。』と、思ってしまう。 大体の人は、自分に厳しいようで、甘いから、ついつい、自分に都合よく、考えてしまう。 だからこそ、自分の位置を知ることは、とっても重要だ。 しかし、ゴールは、同じでも、歩む道は、人それぞれ違う。周りの誰かと比べたり、参考にしても自分の位置を正確に知ることはできない。 それなら、どうすれば良いのか。 それは、自分が歩んできた道を振り返るしかない。 何度も、何度も振り返り、確認するだけだ。そな際、極力、自分が歩んだ来た道ではなく、他人が歩いていると想像した上で、客観的(他人にアドバイスをするようなイメージだと、やりやすいかも)に。 どうしても、厳しくしていると思っていても、自分には、甘くなってしまいがちだが、他人にアドバイス(なるべく上から目線)するようにすると、自然と厳しくなってくる。 だからこそ、ゴールまでの道のりで、今の自分が充分に満たしている所、足りないところ、間違えている所が、正確に見えてくる。 そうすることで、自分の正確な位置を把握することができる。 自分の正確な位置がわかれば、これから、どの道をどう進めばいいのかわかってくる。 これで、ゴールまで、最短距離で進むことができるはず。 コツは、どれだけ客観的に自分を見ることができるかだ。 その為にも、上から目線で自分を見るくらいが調度いい。

周りを上手く使うには。

『周りを上手く使う』 と、聞くと計算高く、嫌な奴の印象があるけれど、僕はよく周りを使っている。(実際には、助けてもらっている。) どうしたら、好意的に手伝って貰うことができるだろう。 僕が実践しているのは、先ず 『周りの手伝いを惜しまない』 ことだ。 そして、見返りを求めない。 決して、「あの時、手伝ったから、これをして。」なども言わない。 周りの手伝いをすることで、自分一人で行っている時には気付かなかった、要領やコツ、全体的な流れが見えてくる。 自分が劣っている、勝っているなど、関係なく、違いを見ることで、思いがけないアイディアが生まれたり、自分の不得意だった所を改善できたりする。 『周りの手伝いをした見返り』 として、 『自分が成長』 することができる。 悪いことではない。 そして、手伝った際、もし自分が勝っていると思った点では、惜しみなくコツや流れを伝えよう。 決して、説教や教えてる立場では無く、「この方が楽じゃない。」「こっちの方が早く出来るよ。」のように。 そうしている内に、自分と仕事をするのは楽しいし、捗る、成果が出ると思って貰えたらこっちのものだ。 自分が助けを欲しいと思っている時に、近寄ってきて、手伝ってくれるはず。 もう一つ、僕が行っているのは、 『極力、譲る』 ことだ。 自分を犠牲にしても、基本的には、助け(手伝い)を求めている人には、手を差し伸べる。 『10あれば、9譲る。』 しかし、自分が譲れない 『1』 は、絶対に譲らない。 そうすることで、周りの人たちは、僕が、 『何に、こだわっている』 のか、理解してくれる。 自分を知って貰うことで、僕が譲れない場面に直面した際、助けを求めているのを知ると、応援してくれる。そして、手を貸してくれる。 僕は、こうして 周りの人達を上手く使っている。 でも、そのための労力は、使っているつもりだ。 『10の内、9は周りのために使っている。』 しかし、そのおかげで、 本当に手を貸して欲しい時や、譲れない場面で、周りの協力で乗り切る ことができてきた。 これからも、同様だと思う。 だから、僕は、周りを使うのが上手いと自負している。 ぜひ、参考にして欲しい。

時間を追う人、時間に追われる人。

仕事、プライベートを問わず 『時間に追われる』 のではく 『時間を追う』 癖をつけよう。 ただ、 『時間を追う』 という言葉を耳にする機会は中々ない。 なぜだろう? 単純に、 『時間に追われる』 は、やるべきことに対して、時間(期日)が迫り、焦ったりすることだと思う。 それなら、 『時間を追う』 は、時間(期日)に対して、やるべきことを終え、余裕ができることだと思う。 そう考えると、 『時間に追われる』 より 『時間を追う』 ほうが絶対にいいに決まっている。 焦って仕事をしても、終わらせることが中心になってしまい、見直すことや時間内でできる必要最低限の準備で終わってしまい、ミスや悪い結果が待っている。仮に上手くいったにしても、そのプレッシャーなどで疲れてしまい、純粋に良かったと思えずに「やっと、終わった(解放された)」の気持ちが強く、すぐ次の仕事に取り掛からずに一休みいれたくなってしまう。 しかし、余裕を持って仕事ができると、見直したり、他に準備しておいた方が良いものがないか探すこともできる。 結果、成功にも近づくし、充実感を得ることで、次へ次へ、仕事を追いかけて行ける。 仕事を追いかけて行ければ、更に時間的余裕を持って、仕事ができ、自分にとって、良い環境で仕事をすることができる。 なぜ、 『時間を追う』 ことが、できず 『時間に追われて』 しまうのか? 違いは何だろう。 『スケジュール管理』 や 『いつ・どのタイミングでどの仕事をするべきか』 の判断を間違えてしまってるなど、考えられることは多々ある。 それを克服するには、経験や知識など、様々な要素が必要とされる。 しかし、もっと根本的なことを変えるだけで、簡単に 『時間を追う』 ことができる。 それは、 『自分を信じ、自分ならできる(簡単だと)思うことだ。』 自分を信じることで、不安が和らぎ、自信を持った仕事ができる。 自分ならできる(簡単だ)と思うことで、成功すれば自信につながるし、例え、失敗に終わっても、 『いい経験をした次は大丈夫』 と思うことができる。 結果、前を向いて仕事と正面から向き合うことで、ミスや不安を心配する無駄な時間が減り、効率よく、仕事ができてくる。 それが 『時間を追う』 ことだと思う。 どうしても、不安があると、それを

『面倒くさい』は、仕事にプラス。

仕事(だけではなく、生活全て)をしていると、面倒くさいと思うことが、誰でも、頻繁にある。 僕は、誰よりも 『面倒くさがり』 だと思っている。 『面倒くさい』 と、思うことは、これからに繋がるチャンスの言葉だ。 これまで、多くの人が面倒くさいと思い、それを解消するために、様々なアイディアや商品が生まれてきている。 面倒くさいと思わずに、ただ黙々と仕事をしていると、これまで以上にも以下にもならない。(多少は、慣れて効率が良くなることがあったとしても) しかし、面倒くさいと日々、感じ、 『何とか』 しようと思うことで、改善策やアイディアが生まれ、今までより、効率よく仕事ができたり、正確にできるようにる。 『面倒くさい』 は、人が進化するための合言葉だ。 ただし、気を付けて欲しいのは、 『一つ先の面倒くさい』 が、様々なアイディアを出してくれるということを。 例えば、ゴミを捨てるのが面倒。 だから、捨てずに、そこに置いておこう。 ではなく、捨てに行くのが面倒だから、ゴミ箱を近くに置いておこう。 のように、 『目の前の面倒くさいで終わらせ、諦めてしまう』 のではなく、その一つ先を想像し、考えることで解決策が生まれてくる。 ゴミをそこに置いたのでは、溜まる一方だし、片付けるのが 面倒 だ。 しかし、ゴミ箱に入っていれば、片付けは、簡単にできる。 目の前の 『面倒くさい』 だけでは、何もアイディアが生まれもしないし、解決策も生まれてくるはずなんてない。 一つ先を想像し、考えるだけで、全然違う。 みんなも、どんどん面倒くさがりになろう。

決断(判断)は、できる限り早く。

仕事をしていると、決断と言うと大げさだが、要所要所で、自分で決断(判断?)しなければいけない時がでてくる。 その際、迷ってはいけない。素早く決断するべきだ。 何も、会社や上司に確認せずに 「答えを出せ!」 ではない。 過度な値引き交渉など、自分本位で決断をして、会社や上司に怒られる(損害を与える)場合もある。 僕が言う 『決断』 は、自分で決めることができないなら、 『まず、上司に報告、相談する』 という 『決断』 を素早く行うべきだということだ。 お客様からの問いに、 『自分の勉強不足や経験不足で、即答できない時も同様』 だ。 わからないことは、何秒、何時間かけてもわからない。そこで、何時間も考える (考えてるふり) のは、 『自分が何も知らないと思われたくない。そんな、小さなプライドを守るためだけ』 でしかない。 仕事にプライドを持つことは大事だし、自分の仕事にプライドを持っている人は、 『仕事ができる人』 と、周りから思われているはず。 しかし、 自分の体裁や見栄を守るためのプライドは、必要ない。むしろ、邪魔。 決断(判断)が、遅い人は、そんな小さなプライドに囚われてしまっている。 僕は、決断(判断)するまでに、10秒も掛けるのは、時間の掛け過ぎだと思うし、実際、瞬時に、決断(判断)している。 僕の行動が正しいとは思わないけれど、間違っているとも思っていない。 「難しい、決断(判断)をしろ!」 という訳ではない。 自分で、回答できる。・・・yes・no noなら、どうする。・・・自分で調べる・先輩に聞く・上司に相談する など、小さな決断(判断)を繰り返していくだけでいい。 自分で、何でもできると思わず、 『できない』『わからない』『答えを出せない』ことが、仕事では必ずある ことを認め、どうどうと対応するべきだと思う。 知ったかぶりで、曖昧な答えをするより、「わかりません。調べてみます(確認します)」の返答をした方が、誰からも信頼される。(「全てがわからない」や「何度聞いてもわかりません。」は、問題外。話にならず) 時間は、待ってくれない。決断(判断)は、素早く行う。を、心がけよう。 決して、 『適当にしろ』 ではない。 小さなプライドを捨て、大きなプライドを持とう。

お客様の断り文句を潰していく。

多くの人には、物欲があり、興味があるもの全てを欲しい(手に入れたい)と考えている。 物欲(欲求)は、本能からくるものだから、普段は、何とか理性で抑えていても、ちょっとした切っ掛けで、理性を簡単に跳ねのけ、『どうしても、欲しい。』『今すぐに、手に入れたい。』と、物欲に負けてしまい、ついつい購入してしまう。 その切っ掛けを作ることのが、営業の仕事だ。 だからこそ、断り文句を潰していくのも、営業手法の一つで、僕が得意とする営業手法だ。 お客様の本音は、『欲しい』であり、『高い』『まだ早い』などの断り文句を潰して(解決)欲しいと、思っている。 それなら、その期待に応えて行けば、自然と購入してくれる。(お客様から、「ぜひ譲ってください。」と、言われることもあるはず。) 『値段が高い』 や 『いらない』 と、言われても、諦めたり、くじけたりする必要はない。 例えば、「もし、この商品が無料でもいりませんか?」「気に入ってくれているなら、差し上げますよ」など、揺さぶりを掛けながら、本音を聞きだしていく。 大抵、「もし無料なら。使ってみようかな。」など、好意的な反応を示してくれるはず。 そこで、すぐに売りに走るのではなく、昨日のブログ 購買意欲をくすぐるには。 のように、お客様にとって、 『その商品やサービスのある生活を想像させ、どんどん膨らませていく。』 購買意欲が湧いてくると、 さっきまでは『高い』や『いらない』 だった、 反応が『欲しいけど、〇〇円位なら、良かったんだけど。』や『同じようなものを持っているから』 など、営業マンにとって、壁が低くなり、販売するまで、一歩も二歩も前進していく。 他の断り文句であっても、商品やサービスの特徴や利点、欠点などをしっかりと認識していれば、切り崩す方法は、見つかるはず。 僕が、断り文句を潰していく営業手法を好んだのは、お客様との距離感が、一つの断り文句を潰すたびに、縮まり、契約時には、もう何年も前から知っている間柄のような、人間関係が築くことができ、それは後々の紹介営業にもつながっていく。 紹介営業ほど、楽な営業はない。 どうしても、営業の仕事には、ノルマがあり、そのノルマの呪縛に囚われてしまう営業マンが多いけど、一つ一つの契約を大事にし、紹介営業をプラスすることができれば、ノルマも自分の

購買意欲をくすぐるには。

営業の仕事で、お客様の購買意欲をくすぐり、高めることは重要になってくる。 そして、それは簡単に誰でもできることだ。 商品やサービスを体験・体感したり、触れさせる。そして、その 商品、サービスがある生活を想像させるだけでいい。 ただし、高額な商品やサービスには特に、営業マンとお客様の境界にある壁が高く、警戒心や抵抗感、遠慮などの阻むものがあり、容易に体験や触れさせることが難しい場合があったり、それとは正反対の全く購入する意識がないのに、体験や触ろうとするお客様(所謂、冷やかし)も多かったりする。 自分とお客様との間にある壁は、焦らず徐々に、低くしていく必要(取り除く必要はない)がある。 壁がある時に、無理強いすると、壁はさらに高くなり、警戒心だけが強くなってしまっては、どうしようもなくなってしまう。 扱っている商品にもよるだろうけど、僕は、お客様との間にある壁を低くするために、よく、その 商品につながるだろうキーワードを含んだ話や質問 をすることが多い。 『世間話で心を開く』など、的外れな教えられ方をする場合もあるけれど、それは間違いだ。 誰が、見ず知らずの他人と世間話をしたいのだろうか。 新規開拓であれば、最初に挨拶、商品の概要程度を説明し、最初の一つ、二つは、あえて商品に関する質問をしてみる。(最初から、遠回しだと逆に警戒心を高めてしまう。) そして、その質問ででた、お客様の反応や答えから、キーワードを含んだ、話や質問を盛り上げていく。 例えば、『水』を販売しようと思ったら、 〇〇「〇〇の〇〇です。水のご紹介にきました。」 〇〇「△△さんは、普段、お水を購入されていますか?それとも、水道水をご利用されていますか。」 △△「家は、水道水です。」 〇〇「そうですよね。蛇口をひねれば、飲める水がでてくるのに、わざわざ購入する必要はないですよね。」 △△「だから、必要ありません。」 〇〇「そうですね。ところで、△△さんは、ご飯とパンでは、どちらを多く、食べられますか?」 △△「パンです。」 〇〇「その際に、コーヒーか何か、お飲みになりますか?」・・・・ こんな流れで進めながら、最初は、単語、単語で会話が切られても、次第に会話になってくる。そして、お客様から、質問や相談がでてくるようになったら、こっちのものだ。