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見込み客とは?

僕は、お客様を育て、契約に導くことは苦手なので、今回は、そんな人にだけ見て欲しいと思う。 営業の仕事をしていると、見込客をどれくらい抱えているかで、 『今月は、ノルマを達成できるな』 とか 『今月は、いくつ(いくら)契約できるな』 など、気持ちに余裕を作ることができる。 しかし、僕は、それが苦手だった。 ひたすら、新規開拓をすることが全ての営業活動を送っている。 僕の見込み客は、ほぼ1~2週間あれば、契約できる案件ばかりで、見込み客と言うより、契約が確定し、いつ契約を交わすかだけだった。 なので、あくまでも、 『こんな考え方もあるんだ。』 と、参考程度にして欲しい。 僕は、見込み客は、いらないと思っている。 営業の基本として、1件の契約を取るために3倍(3件)の見込み客を確保し、その見込み客へ導くための潜在客として、最低10倍(30件)の顧客を抱える必要がある。 (商材によっては、さらに多くの潜在客が必要) そして、さらに10倍(300件)の新規開拓を行うことで、安定して、1件の契約が取れる。 ただ、僕が見込み客にこだわらなかったのは、自分の気持ちに余裕ができ、甘えが生じてしまうからだ。 さらには、契約ではなく、見込み客の確保がメインになり、本来の仕事(契約を取る)とは、かけ離れていってしまう。 そうすると、契約をする?しない?の結果を恐れてしまう。(契約を取るより、見込み客が減ることが怖くなる) そうなってくると、本末転倒だ。 本来の最優先は、契約であり、そのための見込み客がったはずが、契約より、見込み客の数の多さだけにこだわってしまう。 大抵、その原因は、営業会議と言う名の見込み客だけで優越を決めてしまう、くだらない結果報告と、何とか体裁やプライド、自分の営業としての存在を守るためだけしかない。 僕は、見込み客を抱えることは、決して悪いことではないし、会社組織として、売り上げ見込みが立ち、今後の会社の方向性を定めるためにも重要だと思う。 しかし、契約により近い見込み客にアプローチを掛けることは、営業として必要だが、契約に遠い見込み客にアプローチを掛け続けることは、 時間の無駄 でしかない。 会議のための見込み客は、早目に結論(いい結果でも、悪い結果でも)をだし、自分が抱えている見込み客のスリム化を図るべ

どうしたら、欲しくなる?買いたくなる?

営業の話をする前に、どうして、人は商品やサービスに、お金を払うのか? 考えたことは、ありますか? 営業の仕事をする上で、その 『なぜ、お金を払うのか』 を考えないと、仕事が安定してこない。 営業だけではなく、様々な仕事に通じる 『仕事の基本』 にも、なると思う。 『なぜ、お金を払うのか』 購入することでメリットがある。 欲求が満たされる。 から、商品やサービスに、お金を払っても良いと思う。 それなら、それを叶えてあげれば、自然と商品やサービスを販売することができる。 (むしろ、 「ぜひ売ってください。」 に、なるはず。) そうすると、 商品やサービスを購入することでメリット があることを知らせる、思わせることが大事だ 。 それには、 販売する商品やサービス を知ることが重要になってくる。 よく、他人がしっかりと理解するように説明や教えるには、 5倍以上の知識 が必要になると言われるが、その通り、 販売する商品 やサービスをとことん知るべきだと思う。 そして、 欲求を満たすため には、物欲・食欲・流行欲・認知欲など、様々な欲求があるなかで、その人がどの欲求を満たしたいと考えているのか知る必要がある。 そのためには、会話を交わす中で、要所要所にでてくる、 こだわりや心配ごと を聞き出せれば、どの欲求を満たしたいから、その商品やサービスを欲しいかな?と考えているのかわかるはず。 もちろん、営業を仕事とすると、その 商品やサービスを欲しいと考えていない人 にも販売しないと仕事にならない。 (特に、 歩合給が発生する営業 はそのケースが多いと思う。) それでも、人が 商品やサービス を購入するに至る基本は一緒だから、難しく考える必要はない。 ただ、上記に書いた内容を逆に進めれば良いだけだ。 会話をする中で、その人がどの欲求を満たしたいと考えているかを知り、その欲求に提供する商品やサービスが関係するポイントを見つけ(時には、誘導も必用)、その商品やサービスをPRし、求めている欲求を満たすことで簡単に商品やサービスを販売することができる。 営業の仕事を毛嫌いや苦手意識のある人は、難しく考えすぐだと思う。 たった、これだけで簡単に営業の仕事は成り立つ。 会話のコ

同じ失敗は、何度まで?

僕は、同じ失敗を繰り返すのは 『やる気がない』 だけだと、思っている。 一度、二度は、経験として、どんどん失敗するべきだと考えているけれど、三度以上、同じ失敗を繰り返すのは、正直 『やる気がない』 と思う。 唯一、当てはまらないとすれば、職人やスポーツ選手のような、技術を有する仕事や、技術面だと思う。 僕は、職人の世界に身を置いたことがないから、詳しくはないけれど、スポーツでパスミスなどを失敗と捉えると、一度、二度のミスを経て、全てミスなく、パスできるなら、世界でトップを取っているはずだ。 極端な話は、別にして、なぜ、失敗したのか、同じことを繰り返さないためにも、 なぜ、失敗をしたのか? 自分に足りなかったのは、何なのか? 何をしなくては、ならないのか? 何を学ばなければ、いけないのか? を考えなければ、いけない。でないと必ず同じ失敗を繰り返す。 失敗した過程には、様々なシチュエーションがあり、今回の失敗は、今までと状況が違ったと思う時があるかも知れない。 しかし、 『全てのシチュエーションを経験しなければ、失敗を繰り替えすかもしれない。』 と、いうことは、間違いだ。 人には、想像する力がある。 『こういう場合はどうする?』 など、一度の失敗に対しても、様々な状況を想像し、状況が変化したとしても、失敗を繰り返さないよう改善策を考えることはできる。 でも、同じ失敗を繰り返す人は、 『誰かが、その前に教えてくれれば』 や 『あの時、あんなことが起きなければ』 など、自己弁護のための想像しかしない。 自分は悪くない と、思いたいから。 それでは、たかが知れている。 僕は、失敗した時、最初は 『いい経験をした。二度と繰り返さないようにしよう。』 と、心に誓い、二度目には、 『同じ失敗を繰り返すのは馬鹿だ。馬鹿には、なりたくない。そのためには、どうする?』 と、自問自答する。 おかげで、失敗を あまり 、繰り返さずに今までやってこれた。 自己弁護し、自分の失敗を周りや状況のせいにしてしまうのは、簡単だし、自分の プライド も保てる。 しかし、それは、一時の自己満足でしかない。 そんな、小さな プライド は、捨てるに限る。 それよりも、今の自分より、少しでも(一歩でも)、上を目指す気持ちこそが、

仕事で正義感は、大事?

ある程度の正義感は、仕事でも大事になってくるとは思うけれど、強すぎると仕事にならない。 僕の経験では、商品の粗利を知ってしまうと、営業マンは、営業の仕事として、役に立たなくなってしまう。 それは、 『お客様に損をさせているんじゃないか?』 と考え始めたり、 『自分の都合で、価格(値引き)を変えてしまったり』 と、会社としては、扱いづらい営業マンになってしまう。 お客様にとっては、ありがたい存在かも知れないけれど、会社にとっては、決してありがたい存在ではない。 会社は、あくまでも利益を追求する組織だ。ボランティアではない。 『安く買って、高く売る。』 が、商売の鉄則だ。 そこに、感情が、入る余地はない。 例え、粗利が高い商品であっても、需要と供給のバランスがあり、その中で価格設定されている。 もちろん、時代の流れを読めずに、これまで、粗利が高く取れていた商品をいつまでも同じ粗利設定で販売していては、競合他社に負けてしまうことも考えられる。 しかし、その一線を決めるのは会社組織であって、個人ではない。 正義感が強いばかりに、自分の世界だけに縛られて、勝手な行動は、会社組織の根底を揺るがしてしまう。 粗利で言えば、粗利を高めるためには、『高く売る』『安く仕入れる』『無駄な経費を削減する』など、業種によっては、まだまだ方法は沢山ある。 だが、正義感の強い人は、自分の中だけで基準を決めてしまい、結果的に一部だけしか見ておらず、全体を見ることができていないことが多い。 何も、会社の指示通りに全てを行う、 『社畜』 になれと言っている訳ではない。 中途半端な正義感は、良くないと思っているだけだ。 会社全体、取引先企業、お客様と全体を知り、その上で、会社にとってのメリットをアピールする必要がある。 正義感が強い人は、そこの配慮が足りない。 お客様のために、 『商品を安くしたい。』 『会社からは、これ以上の値引きは許可されない。』 『取引先企業を叩いて安く仕入れる。』 『結果、会社から値引きの許可がおりた。』 『お客様に安く提供できた』 上の例だと、上手く、いったように見えるけれど、『取引先企業』をないがしろにしてしまっている。 その結果、『取引できなくなり、お客様がその商品をリピートや故障修理したくてもできず

子供と大人の違いって何?

よく、仕事やプライベートでも、 「子供じゃないんだから。」や「子供っぽい。」 など、話に出てくることがあるけれど、子供と大人の違いは何だろう? 年齢を重ね、20才になったら、大人 『成人』 に、なるけれど、それが本当の大人と子供の境目ではないと思う。 僕には、正しい境目がわからないけれど、世間で一般的には、 『自立した時(親の力を借りずに)』 が、境目にされるケースが多い様な気がする。 でも、親の力(七光り)を借りたにしても、立派に仕事をしている大人もいるし、未成年や学生であっても、親の力を借りずに立派に生活している子供?もいる。 境界線が曖昧な 『大人と子供』 だが、 「子供じゃないんだから。」 など、会話によく出てされても、受け手にとって、解釈が違ってくるだけだと思う。 受け手の解釈が違えば、本意は伝わらずに、話の無駄とまでは言わないけれど、それに近い物がある。 この、 『大人と子供』 の境界線は、絶対に定まらないし、解釈の違いは、埋まらないと思う。 それでも、構わないと思う。 僕は、僕が会話で出す 『大人と子供』 の境界線を伝え、相手に理解して貰えるように、僕が努力すれば良いだけだから。 そして、僕の解釈では、 『大人』 とは、 『守るべきもの』 ができた時だと思う。 (決して、結婚して、家族ができた時に、守るものができるわけではない。) 家族であっても、友達であっても、同僚や部下であっても、構わない。 『守られる側』 から、 『守る側』 に変わった時、人は、 『大人』 になるんだと思う。 それは、 『誰かを守りたい』 そんな思いだけでも、関係ないと思う。 いくら、 『体』 だけが大人になっても、 『誰かに守られることに安心(慣れたまま)』 では、まだまだ、子供だ。 例え、生活が自立しているにしても、人に頼ってばかりでは、子供だと思う。 僕は、せめて家族には頼られ存在になりたいと思う。 そのために、自分を犠牲にするという訳ではない。 もちろん、時には、自分を犠牲にする場合もあるかも知れないが、それ以上の何かを見つけた時、 『本当の大人』 になるんだと、僕は、思っている。 それは、人によって違うと思う。家族の笑顔だったり、裕福な生活だったりするかもしれない。 『守りたい』 という、思いと、自分

上司がいない時に、見えてくるもの。

今日は、上司の休日だった。そんな時だからこそ、見えてくるものがあった。 同僚の中でも、仕事ができる方だと思っていた人がいる。 これまで、新しい仕事に慣れるため、仕事の仕方を重視して見ていたため、同僚の行動、考え方は重要視しておらず、人物像の見極めを怠っていた。 最近は、余裕もできてきて、同僚の人物像を観察し始めて、行動に疑問符がつくケースが多々、見受けられるようになった。 それが、今日、直属の上司が休日で、不在にしていた時の行動を見て、確信した。 『ダメだ。結局、仕事のできない人だった。』 と。 ちょっとは、仕事ができる人と思った、自分がまだまだ、人を見る目は、なかったと、ガッカリしてしまった。 朝、出社は遅い(いつもと比べて、かなり)。 自分でできることも、上司気分でせずに他人に任せる。 そのくせ、責任感があるわけでなく、自分の担当する仕事を優先し、同僚から、協力してもらいながらも、他の同僚がしている仕事には、手を貸さずに上司気取りで口だけ出す。 僕の中で、その同僚の評価は、音を立てて、落ちて行った。 こんな風に、普段とは違う環境になった時、行動や態度が、どう変わるかで、その人の本来の姿が見えてくる。 普段、上司の前では、キレイごとを言っている人が、上司がいない時に、ココぞとばかり態度や行動を変える人は、案外多い。 そんな人を見ると、僕は、 『くだらない人間』 に関わりたくないと思ってしまう。 それとは、正反対に、リーダーシップを取れる人もいる。 上司面ではなく、周りを見て、今、自分が何をすべきか、そして、適材適所を考え、上司のように 指示ではなく、さりげなく適材適所になるよう、誘導できる、 人もいる。 そんな行動ができる人は、いずれ人の上に立てる候補だ。 適材適所への配置は、決して難しい物ではない。 誰でも、同僚の普段の行動を見ていると、何が得意で、何が苦手かは、上司以上に自然とわかっているからだ。 しかし、ここで配置を指示すると、同僚からの反感を買ってしまう。 そこで、さりげなく、誘導できる人は、やはり優秀だ。 僕も、そうなりたいと日々思っている。 しかし、今の同僚にそんな人物はいない。 そろそろ、僕も 『爪を隠している』 場合では、なくなってきた。 権力争いに疲れて

プロ意識を持つだけで、責任感が身につく。

僕の中で、仕事に対する責任感は、その人の仕事の能力を見るうえで、非常に重要な位置にある。 特に、新しい仕事を始めた今は、自分より、社歴が長い人ばかりだが、 「この人は、どんな仕事をしているのか?何に長けているのか?責任感はあるのか?」 を勝手に判断し、僕が今後、成長していくためには、誰のどの部分を真似をすればいいのか。同僚の良いとこ取りをしていきたいと考えている。 『 責任感のある人』 が、見本であれば、段取りよく仕事を進め、極力無駄なことをしないので、追いつくまでは、取り敢えず見本にして、真似をして行こうと思う。 しかし、 『責任感のない人』 の場合、一部の仕事の技術はあるにしても、真似するほどでは、ない場合が多い。 傍から見ても、段取りが悪かったり、本当は何がしたいのかわからない場合が多い。 一部の長けている所だけ、真似をして、その仕事の本来の最終目標を考えながら、自分なりの改善点を探して行く。 一部の仕事を真似するだけなので、追いつくのは容易い。 なぜ、 『責任感のある・なし』 だけで、 『見本にする場合と、それに値しない場合』 の違いができるのかは、明確だ。 『責任感のある人』 は、大抵、視野が広い。 そのため、同じ仕事をする場合でも、周りの人の状況、時間的制限、並行して進めている仕事の内容などによって、仕事の仕方が変化している。 だからこそ、段取りよく仕事を進めている。 反対に 『責任感のない人』 の場合、仕事に変化がない。現状を把握しようとせず、その仕事を終わらせることだけに夢中になっている。 そのため、いつもと違う流れになると、戸惑ったり、ミスを多発してしまったりする。 (それは、それで反面教師には、なるけれど。) そう考えると、仕事において、 『責任感』 は、あるに越したことはない。 なら、 『責任感』 を持つために必要なことは、なんだろう? 僕は、決して難しいことではないと思う。 『プロ意識』 を持つ。これが、最初の切っ掛けになる。 プロと聞くと、スポーツ選手やミュージシャンを思い浮かぶけど、仕事をして、お金を貰っている以上、誰もが、その仕事のプロだ。 アルバイトやパート、正社員など、関係ない。プロはプロだ。アマチュアではない。 そう考えると、スポーツ選手やミュージシャンと同様に、観

自己保身は、本当に自己保身になる?

僕は、ならないと思う。 今日、取引先とのトラブルがあり、その際、取引先がとった言動が、あまりにも自己保身に走りすぎて、僕もイライラしてしまい、 『愚痴おやじ』 の名前のまま、本当の愚痴です。 こちらにも非があり、会社間のトラブルだから、なるべく穏便に済ませたいと思いながらも、「自分は悪くない」の一点張りの対応をされ、僕も冷静さを失って、感情に任せてしまい、まだまだ、子供だと反省している。 でも、正直ムカついた。 そんなことから、時間が経過し、冷静になった時、 『自己保身』 に走る人は、よくいるけれど、結局は 「自分を本当に守れているんだろうか?」 と疑問に思った。 僕は、そう思わない。 自分に都合の良い解釈で話をされても、誰も納得いかない。その時、僕みたいな自己が強い人ではない時は、相手を言いくるめてしまうこともできるだろう。 でも、それは、本当の解決ではないと僕は思う。 目につかないように隠しただけじゃないかと。 隠したものは、いつか見つかる。その時、また、その上に何かを掛け、さらに奥深くに隠すしかない。 本来、早い段階で、解決策を見出すことで、傷は浅くて済み、治すことも容易にできる、はずなのに、隠してしまうことで、見える傷はなくても、見えないところで傷は、手に負えなくなってしまう。 隠しごとを最後まで貫けるなら、いいけど(ウソも突き通せば本当になる。みたいに)大抵はバレる。 隠し事がバレた時、浅くて済むはずだったのが、深い傷になっていて取り返しつかないことになってしまうんじゃないかと思う。 そうすると、 『自己保身』 のために、取った言動が、実は 『自分を追い込んでしまっている』 んじゃないかと思う。 人は誰しも、間違いやミスを犯してしまう。 その際に、取る行動がこれからに大きく左右して、成長することもあれば、退化してしまうこともあると思う。 特に、自己保身は、第三者から見れば、ハッキリとわかるし、自分の価値を落としているだけだと思う。 だから、『自己保身』は、自分を守っていない。 その場を繕って、隠しているだけでしかない。 本当に自分を守りたければ、自分に非がなくても、反省し、解決策(トラブルの回避策)を見出すことで成長し、強くなるからこそ、自分を守ることができる。 以前、 人のせい

「すみません。」が、口癖になってない?

僕の同僚に、 「すみません。」 が、口癖の人がいる。 これまで出会った人の中にも「すみせん。」が、口癖の人は、案外多かった。 何かを貰っても、用事があって声を掛ける時も、そして、怒られても、いつでも「すみません。」 「すみません。」が、口癖の人は、大体、気が弱く、自分に自信を持てない人に多いと思う。 気持ちは、わからなくはないけれど、「すみません。」が口癖になってしまうと、気分が滅入ってしまうんじゃないかと心配になってしまう。 実際、暗くなっている人が多い。 これまでの僕の部下にも、現在の同僚にも、悪いことをしたわけじゃないから、「すみません。」ではなく、 「ありがとう。」 に言い換えた方が良いよと伝えている。 (間違いや失敗した時も、教えてくれて「ありがとう。」の意味で「ありがとう。」で、いいと思う。) そうすることで、気分も明るくなるし、相手にも良い印象を与えるから、「ありがとう。」を意識して使うように進めるけれど、そんな話を聞いた後にも、「すみません。」の一言が。 あ~、やっぱり、重症の人が多い。 意識するだけでも、最初の一歩 にはなる。自分で、「すみません。」が、口癖だと思ったら、「ありがとう。」に、言い換えようと思うことから、始めよう。 そして、次に自分の得 意なこと、長所を伸ばそう。 苦手なことを無くして、自分に自信が持てるようになれば、自然と「ありがとう。」が、口癖になっているとは思うけど、苦手なことや短所を改善していくことは、簡単なことではない。 しかし、自分の得意なこと、長所を伸ばすことは決して難しいことではない。 積極的に得意なことを行い、経験を積むことで、さらに磨きがかかる。 最初は、一部分かも知れないけれど、周りから頼りにされると、『 自分に自信がついてくる』 自信がついてくると、今まで苦手にしていたことにもチャレンジしたくなり、益々 『自分に自信がついてくる』 そんな良いスパイラルにハマると良いんだけれど。 しかし、仕事を選ぶことができずに、苦手なことばかり、やらなければいけない時もある。 そんな時には、毎日、本当に小さな目標を持つべき。 今の自分が少し、ちょっと、背伸びするだけで、達成できる、本当に小さな目標を。 毎日、毎日、自分が一歩ずつ進んでいる実感を得ることで、

掃除は、仕事に入りますか?

今日、ふと掃除は仕事に入るのだろうか?と、疑問に思い、考えてみたら、案外難しく、結局、僕が出した答えは、 「その時、次第。」 と、曖昧な答えしか見つからなかった。 僕なり考え方として、仕事、本来の利益を生み出すかどうか?で、考えると掃除は直接、利益を上げるのではなく、補助的な存在であり、仕事ではなく、作業の一部でしかないと思う。 (掃除が本来の仕事という、職種は別として) 店舗営業をしている業種で考えて見ても、 『 掃除がされているから、物が売れる訳ではなく、店内や商品が、汚れていても売れる。しかし、店内、商品がキレイであれば、もっと売れるかもしれない。』 店舗ではなく、事務所内であれば、掃除されている社内であれば、 『気持ち良く仕事ができ、仕事の効率が良くなるかもしれない。』 と、考えると間接的ではあるけれど、利益に結びついてくるから、仕事の一部になるはずだと思う。 掃除は、 『仕事』 と 『作業』 の両方に位置する、特別な存在だと思う。 なぜ、そんな疑問が思い浮かんだのかというと、同僚の仕事姿を見た時だ。 『ある同僚は、掃除が丁寧でとても綺麗にするけれど、時間を掛け過ぎるし、また、ある同僚は、やる気がなくダラダラ、急な仕事を見つけ、掃除を途中で投げ出してしまった。』 僕は、掃除は丁寧にするべきだと思うけれど、本来の仕事ではないから、時間を掛け過ぎるべきではないと思う。 しかし、周りが掃除をしている時に逃げるように、仕事を無理矢理に見つけるのも、どうかと思う。 前者は、 『掃除は仕事』 。後者は、『 掃除は仕事じゃない』 。と、考えているんじゃないかと思ったからだ。 果たして、どちらが正しいんだろう? 結局、僕の答えは、 『仕事であり、仕事じゃない。から、その時、次第』 の曖昧な答えになってしまった。 掃除は、曖昧な答えだから、曖昧な対応が求められる、難しい存在だ。 みんななら、どう考え、どんな答えを出すんだろう。 僕の中では、曖昧なままで少し、気持ちが悪い。 誰か、納得できる答えを教えて欲しい。 でも、掃除をする時間は、間接的にではあれ、利益を左右するものであるから、給与には、反映されるべきだと思う。 と、言うことは、僕の答えは 『仕事』 に入るのかな。

仕事が合わない。

自分が、本当にやりたかった仕事に就き、実際の仕事内容も充実して、全てが納得、満足している人は、極僅かじゃないだろうか。 みんな、それぞれ、給与・待遇・仕事内容・人間関係などの悩みが必ずあり、それでも仕事を続けていると思う。 もちろん、僕にも悩みはある。今現在の給与も、以前の仕事をしていた時の3分の1位で、家族にも申し訳ないと、日々感じている。 しかし、僕の場合、色々な事情があり、今の仕事を投げ出すわけにはいかない。 以前、僕の友人がプロのスポーツ選手になったことがある。 その友人は、同じスポーツをしている僕たちとは、次元が違い(別格)で、プロへ転向する話を聞いた時、僕を含め、周りのみんなも納得したほどだった。 友人もその競技が本当に好きだった。 しかし、友人がプロに転向してから、1・2年したころ、友人が悩み始めた。 最初は、趣味の延長でお金を稼ぐこともでき、天職と感じていたはずが、次第にプロのスポーツ選手として、スポンサーから、結果を求められるプレッシャーが原因だった。 元々、自由気ままな友人にとって、自分が乗り気になれない大会にでること自体、楽しいことではなかった。 しかし、多額のスポンサー料を貰うからには、スポンサーの期待や意向に沿わなければいけない。 好きだったはずのスポーツが、嫌いになってしまった。 どうしても、その二つの狭間で悩み続け、結果、僕の友人は、プロを捨てた。 僕は、彼らしいと思った。そして、以前の自由きままな友人に戻り、ホッとした。 本当は、彼を叱咤激励して、プロの道を極めるように後押しするべきだったのかもしれない。 しかし、僕は、友人と一緒に遊びで、そのスポーツをしに行った時、 「愚痴おやじは、いいよな。楽しそうで。趣味のままの方がよかった。」 と、ふと口にした。 20年以上たった今でも、忘れられない言葉だ。 だからこそ、友人には、得意なスポーツを心底、楽しんで欲しいと思ったし、一緒に楽しみたいと思った。 そんなことがあり、僕は、友人の決断に納得した。 今でも、友人は、そのスポーツを楽しんでいる。最近は年齢が年齢なのであれだが、ちょっと前までは、友人を知らない人もレベルの違いを感じたはずだ。 楽しみながら、自由にプレイする友人は、プロの肩書がなくても、輝き、人の目をひいた。

努力は、過去形。そして、第三者が使う誉め言葉。

僕は、 『努力』 は、現在進行形ではなく、過去形だと考えている。 そして、自分への評価ではなく、他人からの評価だと思う。 『努力しているのに』 と、自分自身で感じるときは、心が負けそうになっている時だ。 そんな時は、まだまだ道は長い。先が見えなく、このまま頑張っていいのかわからなくなり、迷っている証だ。 一度、立ち止まって、自分が歩んできた道、スタート・ゴール。そして、自分の現在の位置を確認しよう。 スタートからゴールへ向かう道は、最短距離でなくて構わない。険しく、辛い最短距離でも、なだらか遠回りの道でもゴールへ辿り着くことに変わりはない。 そして、現在の自分の位置を確認しよう。自分の位置を知らなければ、迷って当然だ。 そのまま進んでも、遭難してしまう。 山で遭難した時も仕事も同様だ。 迷った時には、立ち止まり、無駄に体力を使わず、冷静な判断が求められる。 だからこそ、 『努力しているのに』 と感じたら、一度立ち止まり、自分が歩んできた道、スタート・ゴール。そして、自分の現在の位置を確認することが大事だと思う。 だからこそ、 『努力』 が頭を過る時は、まだ道半ばだ。 道半ばでは、 『努力』 ではない。 『努力中』 だ。 『努力中』 を 『努力』 とは言わない。 ゴールしてこそ、 『努力』 したと言える。 ゴールにできなければ、 『無駄な努力』 になってしまう。 実際には、ゴールできなくても、その経験が知識になり、次に進む道への糧になる。 僕は、 『無駄な努力』 は、無いと考えている。 そして、ゴールに辿り着いた人は、ゴールした喜びや達成感で、自分が 『努力』 したとは、感じない。 例え、険しく、長い道だっとしても、 「夢中で取組み、気付いたら、ゴールしていた。」 と、思うはず。 自分自身で 『努力』 した結果が、ゴールに辿り着いたとは、思わないと思う。 しかし、第三者は、ゴールした人への 『賞賛』 や 『羨望』 として、 『努力』 という言葉を使う。 時々、 「努力はしているのに」 など、マイナス的な言葉もあるが、それでも、決して、その人を馬鹿にしては、使わない。 その人のことを認め、 『応援』 している時に出てくる言葉だ。 だから、僕は、道半ばでも 『努力』 という言葉を使ってもいいのは、第三者だ

人のせい「自分は悪くない」では、未来がない。

誰しも、失敗した時に、自分に責任があると思いたくない。ついつい、誰かのせいにしてしまう。 開き直って生きている人は別かも知れないが、大なり小なり 『自分は悪くない』 と、思うことはしょうがないことだと思う。 しかし、自分を成長させるためにも、意識して、全てのことは、 『自分が招いたこと』 だと考えてみよう。 自分を成長させるためには、全てのことに 『自分に責任があり、自分の行い、考え方を変えることで防ぐことができた』 と、考えよう。 例えば、 「納品数通りそろえたから、そのまま持って行って大丈夫。」 と言われ、そのまま納品したら数量に間違いがあったとしても 『自分が再確認を行ったから、数量を間違えた』 と、考えれば、次からは 『確認を怠らないようにしよう』 と思うし、極端だが、 『理不尽に怒られた』 にしても、 『雰囲気をわからずにその場に近づいた自分が悪い』 と思えば、 『周囲の雰囲気を感じとろう』 と、考えることができる。 『機嫌が悪く、理不尽だ』 とだけ、思えば、又繰り返される可能性が高い。 例え、 『他人が悪くても、他人を変えることは簡単なことじゃない。』 『自分を変えることの方が全然簡単だ。』 すると、これまでの行動、考え方で改善すべきことがわかってくる。 改善すべきことがわかれば、先が明るくなってくる。 たったこれだけで、これまでの失敗を繰り替えしだったことが、同じ失敗を繰り返さなくて済むようになる。 僕は、 『失敗することは、恥ずかしいことだと思わない。』 ただし、 『同じ失敗を繰り返すのはバカだ』 と思う。 同じ失敗を繰り返さないためにも、全てのことは、自分に責任があると考えよう。 ただ、自分に責任があると思いすぎると、 『自分はダメな人間だ』 と、落ち込んでしまう。 そうすると、成長どころではなく、委縮した分、衰退してしまう。 この考え方は、自分を卑下するためではなく、自分を成長させるための考え方なので、時々、ご褒美として成功したことも、全て自分に責任があると思おう。 例え、同僚が仕事で成果をあげた時も、 『自分がサポートしたから』 や、 『勝利の女神に愛されている、自分がそばにいたから』 など、悪いことだけでなく、良いことも自分の責任だと考えよう。 (調子にのりすぎないように)

選挙のニュースから学ぶ、仕事の考え方。

僕は、基本的に政治の話はしないようにしている。 特に営業の世界で、政治の話はご法度とされている。政治の世界は、様々な思想な人がいて、話や考え方次第で、今まで築き上げた関係が崩壊してしまう可能性があるからだ。 ただ、衆議院選挙のニュースを見て、仕事の考え方に関係すると思うことがあり、あえて選挙について考えてみた。 最近の選挙で、僕が特に気になるのは、政策が云々ではなく、人の揚げ足取りばかりで、中身が全くない気がする。 僕が日本の政治で物足りないと感じるのはそこが大きい。本来、与党と野党があるのは、足を引っ張るのではなく、様々な考え方から、より良いものを探し出すためだと思う。 しかし、今の政治は揚げ足を取ることばかりで、どちらの政策が勝っているかをみんなに問うことから逃げている感じがする。 自分が劣っていることを自覚してるのかもしれない。 仕事でも同様だ。 相手の弱点ばかり攻めてもしょうがない。同じ社内で争っているなら尚更だ。 社内に敵はいない。現状、もし争っているにしても同じ目的(会社の繁栄、利益)を持っている者どうしだ。 違うと思う方もいるかもしれないが、会社を辞めるなら別にして、会社組織に属するなら、会社の繁栄、利益をなくして、自分の収入も上がることは無い。 だったら、相手の弱点を攻めるべきではない。相手の長所をさらに上回って勝ってこそ、最強の味方になってくれると思う。 僕ならそうだ。 僕のミスや弱点を攻められ、負けたとしても、いつか見返すか、立場を逆転しようと狙ってしまう。 しかし、全力で戦い、全力で負けたなら、本心から応援し、その人についていこうと思う。 今の選挙は、相手の弱点をいかにつくかに囚われ、自分の長所をアピールしていないと思う。 自分の最大の武器がわからないまま、戦っても勝つ訳がない。例え、相手のミスに乗じて勝ったとしても、いつひっくり返されるか心配ばかりで、自分の武器が何なのか忘れ、ひっくり返されないよう、さらに相手の弱点を探すことばかりに集中してしまう。 仕事なら、尚更だ。 自分を向上させるためには、最強のライバルが必要だし、ライバルに勝たなければいけない。 例え、負けたにしても、全力でぶつかっての負けなら、負けを素直に認め、ついていこうと思うはず。 いつか、自分の立場を脅かすかもし

仕事の整理整頓を上手にしよう。

僕は、比較的、整理整頓が好きな方だ。乱雑に並んでいると片付けたくなってしまう。 仕事でも整理整頓は大事だと、僕は考えている。 それは、机にしても周辺にしても、整理整頓していると取り出したい時に、すぐに取り出すことができる。 時々、乱雑な中から、欲しい物をすぐに探し出すことができる人もいるが、特殊な例だと思っている。 整理整頓されているメリットは、他人にも容易に探しだすことができるということだと思う。 仕事は、何でも一人で行っているものではない。 周りの人たちの力を借りてこそ、できる仕事が増えてくる。 そのためには、周りの人も、いちいち説明や探す手伝いをしなくても、欲しい物を探し出してもらわなければいけない。 (自分の机を他人に触って欲しくないと僕も思うけど、例えとして) そうすると、同じものを2人で探す時間の無駄や手間が省け、効率よく仕事を進めることができると思う。 そして、身の回りを整理整頓する癖をつけると、頭の中も整理整頓されてくる。 取り出したい知識をすぐに取り出すことができるのは、非常に大事だと思う。 せっかく、身に着けた知識がすぐに取り出せなければ、身についてないことと同じだから。 頭の中の整理整頓は、見えないので、僕の考えが正しいか間違っているかは、正直わからないけど、僕はそう考えている。 身の回りが散らかっていても、頭の整理整頓は、しっかりできている人もいると思う。 そんな人は、実は整理整頓が苦手ではなく、面倒でやっていないだけだと思う。 そんな時は、面倒の先を見るようにすると良いと思う。 整理整頓=面倒=時間がもったいない  から 探す=面倒=時間がもったいない  へ 僕は、いつもそう思いながら片付けをしている。物の場所を聞かれても、すぐに答えることができ、どこに置いたか思い出す面倒から解放されたいので。

大道芸に出会い、学んだこと。

今日、偶然イベントで大道芸を見る機会に出会った。芸人は 『RYU』 さんという方だったが普段、大道芸を見る機会などなく、初めて彼を知った。 プロフィールRYU ジャグリングを得意としているようで、ボールを使ったりなど、色々な芸を披露していた。 ほんのわずかな時間だったが、とても楽しい時間を過ごすことができた。 ただ、純粋にパフォーマンスのみ楽しめればいいんだけど、どうしても僕は彼の表情やしぐさに注目してしまう。 時々見せる、彼の真剣な眼差しが、特に印象に残った。恐らく、非常に難しいパフォーマンスだったんだと思う。 (僕には、全てが真似できないので難しさを上手く表現できない。) マイクを通して聞こえる、彼の声はユーモアやコミカルな内容で、観客を楽しませ、難しいパフォーマンスを簡単にやってのける。 (表現は悪いが、子供が遊んでいるかのように) そして、時々繰り返されるしぐさや行動で気持ちを落ち着かせるためのルーティンなのかなと思いながら、見ていた。 (年をとると、純粋にパフォーマンスを楽しめないらしい。) 巧みな話術で、観客を引き付け、観客の目が自分(パフォーマンス)に注目が集まったところで、徐々にパフォーマンスを加速させていく。 時々、スピードダウンし、観客の反応を確認しながら、再度、加速させていく。 最初は、観客も恥ずかしながら彼にお願いされながらの 『拍手や声援』 だったものが、最後は、自然に 『拍手と声援』 が沸き起こる。 見事に、彼に取り込まれてしまった。 僕は、仕事中心の人間なので、どうしても仕事に結びつけてしまうが、仕事でも最初から、本題に入ったのでは、スムーズに進めることができない。 彼のように、話術(世間話)だったり、資料などの準備で、観客(仕事相手)を自分に引き付け、最大限の成果が出せるようにするべきだ。 そして、今回、非常に勉強になったのが、一人で走りすぎてしまうと、観客(仕事相手)を置いて行ってしまう。 時々、スピードダウンし、自分にちゃんとついてきているか確認しながら、さらにパフォーマンス(仕事)を進めて行くことで、観客(仕事相手)を更に自分に引き付けることができ、最大限の成果をだせるということに気付いた。 どうしても、 熱が入りすぎると、観客(仕事相手)をおいて行ってしまいが

今、やならきゃいけないのは何?仕事の順番。

仕事をする上で、ひとつの仕事が終わってから、次の仕事にと進めることができれば、何も問題はないけれど、大抵はいくつかの仕事を並行して進めて行かなくては、ならないことが多いと思う。 その中で、よく言われる優先順位として 重要で至急性の高い仕事 至急性はないけれど重要な仕事 至急性のみ高く、重要性の高くない仕事 至急性も重要性も高くない仕事 がある。さらに細分化もできるが、細分化しすぎると優先順位を決めるのが優先的になってしまい、仕事に着手するのが遅れるだけで、この4つの優先順位を頭で考えずに直観的に判断できるようになってからで充分だと思う。 しかし、この4つの優先順位も実際には中々自分の思った通りに進めることができない。 特に、遠慮しがちで断ることが苦手な人には難しい。 例えば、お客様にお会いするまでに準備しなくてはいけない物や知識があり、時間を見て準備しようと考えてはいたけれど、突然、上司に至急の仕事をお願いされ準備できずに時間が過ぎ、気付いた時には、お客様とお会いする時間になり、お客様を待たせたり、不快な思いをさせてしまった。 など、上司などからの仕事依頼で優先順位を見失ってしまう場合が多々ある。 本当は、上司などにハッキリと準備を優先したい旨を伝え、断るなり、後回しにするば良いのだが、中々難しい。 しかし、僕は勇気を出し、準備を優先したいことを伝えることをお勧めする。 なぜ、準備を優先するのか理由を明確に伝えることで上司も優先順位を判断し、理解してくれるはずだからだ。 それでも、上司が譲らない場合は、2つ考えられる。 自分が重要と思っていただけで、上司からの仕事の方が更に重要だった場合 上司がわがままかバカ 1のケースだった場合、上司も準備の重要性を理解してくれ、フォローもしてくれるはず 2のケースであれば、上司の仕事を優先する必要はない。ただ、わがまま上司の場合には、八つ当たりやパワハラも覚悟しなくてはならないけれど、その内、潰れていく人間からの八つ当たり、パワハラは絶え、自分の優先順位を守ったからこそできた実績を積み重ね、その上司を越えるべきだ。 時々、世渡りのみが上手く、ずるい上司もいるけれど、そんな時は、さりげなく、周りも巻き込みながら報告するようにして、第三者を味方につけ、準備を疎かに

仕事は好き?

僕は、仕事が大好きだ。しかし、生き甲斐ではない。 仕事をする理由として、『お金を稼ぐ』だと思う。 その域を超え、お金ではなく、「趣味として」や「時間があるから」「興味があるから」などの理由で仕事ができる環境にいる人は、ごくわずだ。 大半の人は賃金を得ることが前提としてあり、その次に、「趣味の延長」「興味がある」などと続くことだと思う。 仕事をすることで、生活ができ、プライベートも充実させることができる。 プライベートを大事にするあまり、仕事が疎かになったのでは、本末転倒だし、その正反対の仕事を中心としすぎ、プライベートが犠牲になるのも本末転倒だ。 仕事、プライベート共にバランスを上手く取れるかどうかが重要だと思う。 その中で、僕もそうだし、多くの人は一日の大半を仕事に費やす。(ブラック企業とか、関係なく) 8時間労働としても、通勤、昼を含めると、10時間以上は、会社に拘束されている人が殆どだと思う。 もちろん、一日数時間の仕事でも生活が成り立つ人もいることと思うが、その人たちは恵まれた環境にいる、ごく僅かな選ばれた人たちなので、別として。 一般的な人が、一日の大半の時間を費やすこととなる仕事だが、どうせやるなら、楽しくやった方が絶対に良いと思う。 仕事が楽しければ、向上心も湧いてくるし、イヤイヤするより覚えるのも早い。 楽しく仕事をするために、一番簡単な方法は『仕事を好きになる』ことだ。 今行っている仕事が嫌いな場合でも、小さくても構わない(通勤が楽・給与が高いなど)どこか好きな所を探しだし、そこから好きを拡げていくうちに仕事が好きになってくる。 そうすると、仕事が楽しくなる。楽しくなると『給与も上がる』『拘束時間を少なく出来る』など、プライベートに費やす時間とお金が増えてくる。 プライベートも充実し、リフレッシュができ、更に仕事が楽しくなる。 と、相乗効果が生まれてくる。 よく、仕事よりもプライベートが大事だからと仕事を疎かにする人を見かけるが、極僅かの選ばれた人は除外すると、本当にプライベートが充実しているか疑問符がついてしまう。 どちらかと言うと『充実している』と、思い込んでいるだけで、実際は小さな世界での小さな充実でしかないような気がする。 もっと広く見渡し、今以上に充実した生活をしたいと僕は思

背くらべをするなら、自分より、上の存在としよう。

誰も、自分が今どの位置にいるのか気になり、知らないうちに他人と自分を比べてしまう。 大昔から、人が集団行動をしてきた本能なんだと思う。 しかし、くらべ方にも人それぞれ違いがある。 僕は、これまで極力、自分より上の人と比べるようにしている。 今の自分に何が足りないのか、自分の欠点は何なのかを知りたいからだ。 世の中には、自分の上・先をいく人は数えきれないほど沢山いる。一歩ずつ越えて行っても、一生かかっても登りきることは無いだろう。 それが楽しいと感じる。 僕の真似をして欲しいわけではないが、自分より、下の人とくらべて、自分が勝っていることに喜びを得ている人もいる。 自分に自信がつき、良いモチベーションを保てるなら、良いとは思うけれど、僕には自己満足としか思えない。 もちろん、僕も心の中では、『あの人より、これは得意だ。』と、思うこともある。しかし、僕には、それがやる気をだすスイッチにはならない。 むしろ、敵わない相手に向かっていくことに魅力を感じる。 (ただの負けず嫌いなだけかも) 自分より、下を見てばかりいると、壁にぶつかった時、対処ができない。出来るわけがない。 その壁を乗り越えている人ではなく、その壁にもまだ辿り着かない人しか見ていないのだから。 だから、僕は、自分のモチベーションをあげるため、時々、自分より下の人を見て、自己満足するのも構わないが、基本的には上を向いて進んでいくことをお勧めする。 普段、歩く時もうつむきかげんではなく、しっかりと前を向いて歩こう。 僕は、意識して、少し上を向いて歩いている。そうすると気分が盛り上がってきて、前向きに物事を捉えられようになってくるから。 (時々は、下も見ないと躓いてしまうけど)

本当にできないのか?

すぐに、 「できない。」 と言う人がいるけど、本当にできないんだろうか。 大体は、子供と一緒で、考えることが面倒だったり、やりたくないだけだったりすると思う。 「宿題ができない。」などと、子供であれば、親に叱られながらも、教えられて宿題を終えることができる。(大抵は、教えるほどではなく、自分でちょっと考えるだけで終わったりするけど。) しかし、仕事となるとそうはいかない。新入社員であれば、上司や先輩が教えてくれるかもしれないが、ある程度仕事に慣れてきたら、自ら聞きに行かなければ、誰も教えてくれない。 恥ずかしいやプライドなど捨て、素直に聞ければ良いのだけれど。 まだ、人間関係を構築できずに 「教えて」 と素直に言えないこともあるし、同じことを何度も聞き、相手から嫌な顔をされたり、体よく断られたりした経験があったりすると、だんだん聞き辛くなってしまう。悪循環の始まりだ。 今度は、『 できない』 ではなく、 「今、忙しい」 や 「別の仕事がある」 など、 言い訳 が始まり、 仕事放棄 の始まりにもなってしまう。 できないこと、わからないことは、先ずは自分で、 できる方法 や 調べること から始めよう。 できる可能性・方法を考えなければ、いつまでたっても 『できない』 で終わってしまう。 それでも、できなかったり、わからないことは多々あるはず。 そんな時は、 自分なりの考え を持って、「こうしたいけど、それはあっているのか?」「調べたが、これでいいのか?」など、聞き方を変化させると、上司や先輩の教え方も変わるし、自分の見方も変わってくるはず。 もともと、人は誰でも 「誰かに何かを教えたい。」 と言う、 欲求 を持っている。 ただ、同じことを何度もだったり、タイミングが悪かったりで、素直に教えてくれない時があるだけで。 相手が本来持っている 「教えたい欲求」 をくすぐりながら、 出過ぎない自分なりの主張 を持っていると、次第に聞かないことまで教えてくれるようになる。 それを面倒くさがらずに、自分に 『チャンスが来た』 と思おう。 立場は上司部下や先輩後輩であっても、自分のブレーンとして、利用するチャンスだ。 一人で何もかも覚え、経験することで、レベルアップを図れれば、それが本当の実力かもしれない。しかし、人や仕