スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

ラベル(基本)が付いた投稿を表示しています

見込み客とは?

僕は、お客様を育て、契約に導くことは苦手なので、今回は、そんな人にだけ見て欲しいと思う。 営業の仕事をしていると、見込客をどれくらい抱えているかで、 『今月は、ノルマを達成できるな』 とか 『今月は、いくつ(いくら)契約できるな』 など、気持ちに余裕を作ることができる。 しかし、僕は、それが苦手だった。 ひたすら、新規開拓をすることが全ての営業活動を送っている。 僕の見込み客は、ほぼ1~2週間あれば、契約できる案件ばかりで、見込み客と言うより、契約が確定し、いつ契約を交わすかだけだった。 なので、あくまでも、 『こんな考え方もあるんだ。』 と、参考程度にして欲しい。 僕は、見込み客は、いらないと思っている。 営業の基本として、1件の契約を取るために3倍(3件)の見込み客を確保し、その見込み客へ導くための潜在客として、最低10倍(30件)の顧客を抱える必要がある。 (商材によっては、さらに多くの潜在客が必要) そして、さらに10倍(300件)の新規開拓を行うことで、安定して、1件の契約が取れる。 ただ、僕が見込み客にこだわらなかったのは、自分の気持ちに余裕ができ、甘えが生じてしまうからだ。 さらには、契約ではなく、見込み客の確保がメインになり、本来の仕事(契約を取る)とは、かけ離れていってしまう。 そうすると、契約をする?しない?の結果を恐れてしまう。(契約を取るより、見込み客が減ることが怖くなる) そうなってくると、本末転倒だ。 本来の最優先は、契約であり、そのための見込み客がったはずが、契約より、見込み客の数の多さだけにこだわってしまう。 大抵、その原因は、営業会議と言う名の見込み客だけで優越を決めてしまう、くだらない結果報告と、何とか体裁やプライド、自分の営業としての存在を守るためだけしかない。 僕は、見込み客を抱えることは、決して悪いことではないし、会社組織として、売り上げ見込みが立ち、今後の会社の方向性を定めるためにも重要だと思う。 しかし、契約により近い見込み客にアプローチを掛けることは、営業として必要だが、契約に遠い見込み客にアプローチを掛け続けることは、 時間の無駄 でしかない。 会議のための見込み客は、早目に結論(いい結果でも、悪い結果でも)をだし、自分が抱えている見込み客のスリム化を図るべ

どうしたら、欲しくなる?買いたくなる?

営業の話をする前に、どうして、人は商品やサービスに、お金を払うのか? 考えたことは、ありますか? 営業の仕事をする上で、その 『なぜ、お金を払うのか』 を考えないと、仕事が安定してこない。 営業だけではなく、様々な仕事に通じる 『仕事の基本』 にも、なると思う。 『なぜ、お金を払うのか』 購入することでメリットがある。 欲求が満たされる。 から、商品やサービスに、お金を払っても良いと思う。 それなら、それを叶えてあげれば、自然と商品やサービスを販売することができる。 (むしろ、 「ぜひ売ってください。」 に、なるはず。) そうすると、 商品やサービスを購入することでメリット があることを知らせる、思わせることが大事だ 。 それには、 販売する商品やサービス を知ることが重要になってくる。 よく、他人がしっかりと理解するように説明や教えるには、 5倍以上の知識 が必要になると言われるが、その通り、 販売する商品 やサービスをとことん知るべきだと思う。 そして、 欲求を満たすため には、物欲・食欲・流行欲・認知欲など、様々な欲求があるなかで、その人がどの欲求を満たしたいと考えているのか知る必要がある。 そのためには、会話を交わす中で、要所要所にでてくる、 こだわりや心配ごと を聞き出せれば、どの欲求を満たしたいから、その商品やサービスを欲しいかな?と考えているのかわかるはず。 もちろん、営業を仕事とすると、その 商品やサービスを欲しいと考えていない人 にも販売しないと仕事にならない。 (特に、 歩合給が発生する営業 はそのケースが多いと思う。) それでも、人が 商品やサービス を購入するに至る基本は一緒だから、難しく考える必要はない。 ただ、上記に書いた内容を逆に進めれば良いだけだ。 会話をする中で、その人がどの欲求を満たしたいと考えているかを知り、その欲求に提供する商品やサービスが関係するポイントを見つけ(時には、誘導も必用)、その商品やサービスをPRし、求めている欲求を満たすことで簡単に商品やサービスを販売することができる。 営業の仕事を毛嫌いや苦手意識のある人は、難しく考えすぐだと思う。 たった、これだけで簡単に営業の仕事は成り立つ。 会話のコ

同じ失敗は、何度まで?

僕は、同じ失敗を繰り返すのは 『やる気がない』 だけだと、思っている。 一度、二度は、経験として、どんどん失敗するべきだと考えているけれど、三度以上、同じ失敗を繰り返すのは、正直 『やる気がない』 と思う。 唯一、当てはまらないとすれば、職人やスポーツ選手のような、技術を有する仕事や、技術面だと思う。 僕は、職人の世界に身を置いたことがないから、詳しくはないけれど、スポーツでパスミスなどを失敗と捉えると、一度、二度のミスを経て、全てミスなく、パスできるなら、世界でトップを取っているはずだ。 極端な話は、別にして、なぜ、失敗したのか、同じことを繰り返さないためにも、 なぜ、失敗をしたのか? 自分に足りなかったのは、何なのか? 何をしなくては、ならないのか? 何を学ばなければ、いけないのか? を考えなければ、いけない。でないと必ず同じ失敗を繰り返す。 失敗した過程には、様々なシチュエーションがあり、今回の失敗は、今までと状況が違ったと思う時があるかも知れない。 しかし、 『全てのシチュエーションを経験しなければ、失敗を繰り替えすかもしれない。』 と、いうことは、間違いだ。 人には、想像する力がある。 『こういう場合はどうする?』 など、一度の失敗に対しても、様々な状況を想像し、状況が変化したとしても、失敗を繰り返さないよう改善策を考えることはできる。 でも、同じ失敗を繰り返す人は、 『誰かが、その前に教えてくれれば』 や 『あの時、あんなことが起きなければ』 など、自己弁護のための想像しかしない。 自分は悪くない と、思いたいから。 それでは、たかが知れている。 僕は、失敗した時、最初は 『いい経験をした。二度と繰り返さないようにしよう。』 と、心に誓い、二度目には、 『同じ失敗を繰り返すのは馬鹿だ。馬鹿には、なりたくない。そのためには、どうする?』 と、自問自答する。 おかげで、失敗を あまり 、繰り返さずに今までやってこれた。 自己弁護し、自分の失敗を周りや状況のせいにしてしまうのは、簡単だし、自分の プライド も保てる。 しかし、それは、一時の自己満足でしかない。 そんな、小さな プライド は、捨てるに限る。 それよりも、今の自分より、少しでも(一歩でも)、上を目指す気持ちこそが、

仕事で正義感は、大事?

ある程度の正義感は、仕事でも大事になってくるとは思うけれど、強すぎると仕事にならない。 僕の経験では、商品の粗利を知ってしまうと、営業マンは、営業の仕事として、役に立たなくなってしまう。 それは、 『お客様に損をさせているんじゃないか?』 と考え始めたり、 『自分の都合で、価格(値引き)を変えてしまったり』 と、会社としては、扱いづらい営業マンになってしまう。 お客様にとっては、ありがたい存在かも知れないけれど、会社にとっては、決してありがたい存在ではない。 会社は、あくまでも利益を追求する組織だ。ボランティアではない。 『安く買って、高く売る。』 が、商売の鉄則だ。 そこに、感情が、入る余地はない。 例え、粗利が高い商品であっても、需要と供給のバランスがあり、その中で価格設定されている。 もちろん、時代の流れを読めずに、これまで、粗利が高く取れていた商品をいつまでも同じ粗利設定で販売していては、競合他社に負けてしまうことも考えられる。 しかし、その一線を決めるのは会社組織であって、個人ではない。 正義感が強いばかりに、自分の世界だけに縛られて、勝手な行動は、会社組織の根底を揺るがしてしまう。 粗利で言えば、粗利を高めるためには、『高く売る』『安く仕入れる』『無駄な経費を削減する』など、業種によっては、まだまだ方法は沢山ある。 だが、正義感の強い人は、自分の中だけで基準を決めてしまい、結果的に一部だけしか見ておらず、全体を見ることができていないことが多い。 何も、会社の指示通りに全てを行う、 『社畜』 になれと言っている訳ではない。 中途半端な正義感は、良くないと思っているだけだ。 会社全体、取引先企業、お客様と全体を知り、その上で、会社にとってのメリットをアピールする必要がある。 正義感が強い人は、そこの配慮が足りない。 お客様のために、 『商品を安くしたい。』 『会社からは、これ以上の値引きは許可されない。』 『取引先企業を叩いて安く仕入れる。』 『結果、会社から値引きの許可がおりた。』 『お客様に安く提供できた』 上の例だと、上手く、いったように見えるけれど、『取引先企業』をないがしろにしてしまっている。 その結果、『取引できなくなり、お客様がその商品をリピートや故障修理したくてもできず

子供と大人の違いって何?

よく、仕事やプライベートでも、 「子供じゃないんだから。」や「子供っぽい。」 など、話に出てくることがあるけれど、子供と大人の違いは何だろう? 年齢を重ね、20才になったら、大人 『成人』 に、なるけれど、それが本当の大人と子供の境目ではないと思う。 僕には、正しい境目がわからないけれど、世間で一般的には、 『自立した時(親の力を借りずに)』 が、境目にされるケースが多い様な気がする。 でも、親の力(七光り)を借りたにしても、立派に仕事をしている大人もいるし、未成年や学生であっても、親の力を借りずに立派に生活している子供?もいる。 境界線が曖昧な 『大人と子供』 だが、 「子供じゃないんだから。」 など、会話によく出てされても、受け手にとって、解釈が違ってくるだけだと思う。 受け手の解釈が違えば、本意は伝わらずに、話の無駄とまでは言わないけれど、それに近い物がある。 この、 『大人と子供』 の境界線は、絶対に定まらないし、解釈の違いは、埋まらないと思う。 それでも、構わないと思う。 僕は、僕が会話で出す 『大人と子供』 の境界線を伝え、相手に理解して貰えるように、僕が努力すれば良いだけだから。 そして、僕の解釈では、 『大人』 とは、 『守るべきもの』 ができた時だと思う。 (決して、結婚して、家族ができた時に、守るものができるわけではない。) 家族であっても、友達であっても、同僚や部下であっても、構わない。 『守られる側』 から、 『守る側』 に変わった時、人は、 『大人』 になるんだと思う。 それは、 『誰かを守りたい』 そんな思いだけでも、関係ないと思う。 いくら、 『体』 だけが大人になっても、 『誰かに守られることに安心(慣れたまま)』 では、まだまだ、子供だ。 例え、生活が自立しているにしても、人に頼ってばかりでは、子供だと思う。 僕は、せめて家族には頼られ存在になりたいと思う。 そのために、自分を犠牲にするという訳ではない。 もちろん、時には、自分を犠牲にする場合もあるかも知れないが、それ以上の何かを見つけた時、 『本当の大人』 になるんだと、僕は、思っている。 それは、人によって違うと思う。家族の笑顔だったり、裕福な生活だったりするかもしれない。 『守りたい』 という、思いと、自分

上司がいない時に、見えてくるもの。

今日は、上司の休日だった。そんな時だからこそ、見えてくるものがあった。 同僚の中でも、仕事ができる方だと思っていた人がいる。 これまで、新しい仕事に慣れるため、仕事の仕方を重視して見ていたため、同僚の行動、考え方は重要視しておらず、人物像の見極めを怠っていた。 最近は、余裕もできてきて、同僚の人物像を観察し始めて、行動に疑問符がつくケースが多々、見受けられるようになった。 それが、今日、直属の上司が休日で、不在にしていた時の行動を見て、確信した。 『ダメだ。結局、仕事のできない人だった。』 と。 ちょっとは、仕事ができる人と思った、自分がまだまだ、人を見る目は、なかったと、ガッカリしてしまった。 朝、出社は遅い(いつもと比べて、かなり)。 自分でできることも、上司気分でせずに他人に任せる。 そのくせ、責任感があるわけでなく、自分の担当する仕事を優先し、同僚から、協力してもらいながらも、他の同僚がしている仕事には、手を貸さずに上司気取りで口だけ出す。 僕の中で、その同僚の評価は、音を立てて、落ちて行った。 こんな風に、普段とは違う環境になった時、行動や態度が、どう変わるかで、その人の本来の姿が見えてくる。 普段、上司の前では、キレイごとを言っている人が、上司がいない時に、ココぞとばかり態度や行動を変える人は、案外多い。 そんな人を見ると、僕は、 『くだらない人間』 に関わりたくないと思ってしまう。 それとは、正反対に、リーダーシップを取れる人もいる。 上司面ではなく、周りを見て、今、自分が何をすべきか、そして、適材適所を考え、上司のように 指示ではなく、さりげなく適材適所になるよう、誘導できる、 人もいる。 そんな行動ができる人は、いずれ人の上に立てる候補だ。 適材適所への配置は、決して難しい物ではない。 誰でも、同僚の普段の行動を見ていると、何が得意で、何が苦手かは、上司以上に自然とわかっているからだ。 しかし、ここで配置を指示すると、同僚からの反感を買ってしまう。 そこで、さりげなく、誘導できる人は、やはり優秀だ。 僕も、そうなりたいと日々思っている。 しかし、今の同僚にそんな人物はいない。 そろそろ、僕も 『爪を隠している』 場合では、なくなってきた。 権力争いに疲れて

プロ意識を持つだけで、責任感が身につく。

僕の中で、仕事に対する責任感は、その人の仕事の能力を見るうえで、非常に重要な位置にある。 特に、新しい仕事を始めた今は、自分より、社歴が長い人ばかりだが、 「この人は、どんな仕事をしているのか?何に長けているのか?責任感はあるのか?」 を勝手に判断し、僕が今後、成長していくためには、誰のどの部分を真似をすればいいのか。同僚の良いとこ取りをしていきたいと考えている。 『 責任感のある人』 が、見本であれば、段取りよく仕事を進め、極力無駄なことをしないので、追いつくまでは、取り敢えず見本にして、真似をして行こうと思う。 しかし、 『責任感のない人』 の場合、一部の仕事の技術はあるにしても、真似するほどでは、ない場合が多い。 傍から見ても、段取りが悪かったり、本当は何がしたいのかわからない場合が多い。 一部の長けている所だけ、真似をして、その仕事の本来の最終目標を考えながら、自分なりの改善点を探して行く。 一部の仕事を真似するだけなので、追いつくのは容易い。 なぜ、 『責任感のある・なし』 だけで、 『見本にする場合と、それに値しない場合』 の違いができるのかは、明確だ。 『責任感のある人』 は、大抵、視野が広い。 そのため、同じ仕事をする場合でも、周りの人の状況、時間的制限、並行して進めている仕事の内容などによって、仕事の仕方が変化している。 だからこそ、段取りよく仕事を進めている。 反対に 『責任感のない人』 の場合、仕事に変化がない。現状を把握しようとせず、その仕事を終わらせることだけに夢中になっている。 そのため、いつもと違う流れになると、戸惑ったり、ミスを多発してしまったりする。 (それは、それで反面教師には、なるけれど。) そう考えると、仕事において、 『責任感』 は、あるに越したことはない。 なら、 『責任感』 を持つために必要なことは、なんだろう? 僕は、決して難しいことではないと思う。 『プロ意識』 を持つ。これが、最初の切っ掛けになる。 プロと聞くと、スポーツ選手やミュージシャンを思い浮かぶけど、仕事をして、お金を貰っている以上、誰もが、その仕事のプロだ。 アルバイトやパート、正社員など、関係ない。プロはプロだ。アマチュアではない。 そう考えると、スポーツ選手やミュージシャンと同様に、観

自己保身は、本当に自己保身になる?

僕は、ならないと思う。 今日、取引先とのトラブルがあり、その際、取引先がとった言動が、あまりにも自己保身に走りすぎて、僕もイライラしてしまい、 『愚痴おやじ』 の名前のまま、本当の愚痴です。 こちらにも非があり、会社間のトラブルだから、なるべく穏便に済ませたいと思いながらも、「自分は悪くない」の一点張りの対応をされ、僕も冷静さを失って、感情に任せてしまい、まだまだ、子供だと反省している。 でも、正直ムカついた。 そんなことから、時間が経過し、冷静になった時、 『自己保身』 に走る人は、よくいるけれど、結局は 「自分を本当に守れているんだろうか?」 と疑問に思った。 僕は、そう思わない。 自分に都合の良い解釈で話をされても、誰も納得いかない。その時、僕みたいな自己が強い人ではない時は、相手を言いくるめてしまうこともできるだろう。 でも、それは、本当の解決ではないと僕は思う。 目につかないように隠しただけじゃないかと。 隠したものは、いつか見つかる。その時、また、その上に何かを掛け、さらに奥深くに隠すしかない。 本来、早い段階で、解決策を見出すことで、傷は浅くて済み、治すことも容易にできる、はずなのに、隠してしまうことで、見える傷はなくても、見えないところで傷は、手に負えなくなってしまう。 隠しごとを最後まで貫けるなら、いいけど(ウソも突き通せば本当になる。みたいに)大抵はバレる。 隠し事がバレた時、浅くて済むはずだったのが、深い傷になっていて取り返しつかないことになってしまうんじゃないかと思う。 そうすると、 『自己保身』 のために、取った言動が、実は 『自分を追い込んでしまっている』 んじゃないかと思う。 人は誰しも、間違いやミスを犯してしまう。 その際に、取る行動がこれからに大きく左右して、成長することもあれば、退化してしまうこともあると思う。 特に、自己保身は、第三者から見れば、ハッキリとわかるし、自分の価値を落としているだけだと思う。 だから、『自己保身』は、自分を守っていない。 その場を繕って、隠しているだけでしかない。 本当に自分を守りたければ、自分に非がなくても、反省し、解決策(トラブルの回避策)を見出すことで成長し、強くなるからこそ、自分を守ることができる。 以前、 人のせい

「すみません。」が、口癖になってない?

僕の同僚に、 「すみません。」 が、口癖の人がいる。 これまで出会った人の中にも「すみせん。」が、口癖の人は、案外多かった。 何かを貰っても、用事があって声を掛ける時も、そして、怒られても、いつでも「すみません。」 「すみません。」が、口癖の人は、大体、気が弱く、自分に自信を持てない人に多いと思う。 気持ちは、わからなくはないけれど、「すみません。」が口癖になってしまうと、気分が滅入ってしまうんじゃないかと心配になってしまう。 実際、暗くなっている人が多い。 これまでの僕の部下にも、現在の同僚にも、悪いことをしたわけじゃないから、「すみません。」ではなく、 「ありがとう。」 に言い換えた方が良いよと伝えている。 (間違いや失敗した時も、教えてくれて「ありがとう。」の意味で「ありがとう。」で、いいと思う。) そうすることで、気分も明るくなるし、相手にも良い印象を与えるから、「ありがとう。」を意識して使うように進めるけれど、そんな話を聞いた後にも、「すみません。」の一言が。 あ~、やっぱり、重症の人が多い。 意識するだけでも、最初の一歩 にはなる。自分で、「すみません。」が、口癖だと思ったら、「ありがとう。」に、言い換えようと思うことから、始めよう。 そして、次に自分の得 意なこと、長所を伸ばそう。 苦手なことを無くして、自分に自信が持てるようになれば、自然と「ありがとう。」が、口癖になっているとは思うけど、苦手なことや短所を改善していくことは、簡単なことではない。 しかし、自分の得意なこと、長所を伸ばすことは決して難しいことではない。 積極的に得意なことを行い、経験を積むことで、さらに磨きがかかる。 最初は、一部分かも知れないけれど、周りから頼りにされると、『 自分に自信がついてくる』 自信がついてくると、今まで苦手にしていたことにもチャレンジしたくなり、益々 『自分に自信がついてくる』 そんな良いスパイラルにハマると良いんだけれど。 しかし、仕事を選ぶことができずに、苦手なことばかり、やらなければいけない時もある。 そんな時には、毎日、本当に小さな目標を持つべき。 今の自分が少し、ちょっと、背伸びするだけで、達成できる、本当に小さな目標を。 毎日、毎日、自分が一歩ずつ進んでいる実感を得ることで、

掃除は、仕事に入りますか?

今日、ふと掃除は仕事に入るのだろうか?と、疑問に思い、考えてみたら、案外難しく、結局、僕が出した答えは、 「その時、次第。」 と、曖昧な答えしか見つからなかった。 僕なり考え方として、仕事、本来の利益を生み出すかどうか?で、考えると掃除は直接、利益を上げるのではなく、補助的な存在であり、仕事ではなく、作業の一部でしかないと思う。 (掃除が本来の仕事という、職種は別として) 店舗営業をしている業種で考えて見ても、 『 掃除がされているから、物が売れる訳ではなく、店内や商品が、汚れていても売れる。しかし、店内、商品がキレイであれば、もっと売れるかもしれない。』 店舗ではなく、事務所内であれば、掃除されている社内であれば、 『気持ち良く仕事ができ、仕事の効率が良くなるかもしれない。』 と、考えると間接的ではあるけれど、利益に結びついてくるから、仕事の一部になるはずだと思う。 掃除は、 『仕事』 と 『作業』 の両方に位置する、特別な存在だと思う。 なぜ、そんな疑問が思い浮かんだのかというと、同僚の仕事姿を見た時だ。 『ある同僚は、掃除が丁寧でとても綺麗にするけれど、時間を掛け過ぎるし、また、ある同僚は、やる気がなくダラダラ、急な仕事を見つけ、掃除を途中で投げ出してしまった。』 僕は、掃除は丁寧にするべきだと思うけれど、本来の仕事ではないから、時間を掛け過ぎるべきではないと思う。 しかし、周りが掃除をしている時に逃げるように、仕事を無理矢理に見つけるのも、どうかと思う。 前者は、 『掃除は仕事』 。後者は、『 掃除は仕事じゃない』 。と、考えているんじゃないかと思ったからだ。 果たして、どちらが正しいんだろう? 結局、僕の答えは、 『仕事であり、仕事じゃない。から、その時、次第』 の曖昧な答えになってしまった。 掃除は、曖昧な答えだから、曖昧な対応が求められる、難しい存在だ。 みんななら、どう考え、どんな答えを出すんだろう。 僕の中では、曖昧なままで少し、気持ちが悪い。 誰か、納得できる答えを教えて欲しい。 でも、掃除をする時間は、間接的にではあれ、利益を左右するものであるから、給与には、反映されるべきだと思う。 と、言うことは、僕の答えは 『仕事』 に入るのかな。