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仕事と作業の違いは何だろう?

仕事と作業の違いは何なんだろうか。 仕事も作業の一部だし、作業も仕事の一部だ。よく、赤ちゃんに 「赤ちゃんは、泣くのも仕事。」 と、いうこともある。 詳しく調べれば、決まった定義があるのかもしれないが、僕なりの解釈では、そこに 第三者が加入するかしないか の違いだと思う。 さっきの赤ちゃんも親や周りの人に自分の気持ちを伝える手段として、 『泣く』 。だから、作業ではなく、仕事と言われるんだろう。 自分の趣味で何かを作ったりするのは、 自己満足 でも 簡潔 するので、 作業 になる。 そこに、第三者の感想や意見を聞きたいと思い、SNSなどに投稿していくと利益は生み出さないとしても、仕事の一部になるんだと思う。 第三者の感想や意見が欲しくなる と、 『より良い作業をしよう。』『どうした注目されるだろう。』 と、思考が湧いてくる。 その気持ちが仕事 には必要なんだと思う。 普段、会社で行わなければいけないのは、やはり、仕事であり、作業ではない。錬金術のようにお金を直接作り出せるなら作業でも良いけれど、そんなことはあり得ない。 第三者が自分が作りだした商品やサービスに価値を見出してくれ、対価としてお金を得ることができるからだ。 例えば、工場へ勤めている人も同じだ。 毎日行うのは、決められた作業かも知れない。しかし、その作業を求めているのは会社であり、その商品を欲している第三者がいるからだ。 誰からも求められていない物をひたすら作り出すなら作業だが、欲している人がいる以上、仕事になると僕は思う。 その中で、 より多くの人に商品やサービスを届けたい から、 『作業の効率を上げる。』『作業の正確性を追求する。』 そんな考え方が仕事に正面から向き合う姿になる。 よく、仕事は良くて、作業はダメみたいなことを言う人もいるが、それは自己満足なのか第三者に喜んで貰いたいかの違いであって、普段行っている作業も第三者を意識して行うだけで仕事になる。 ロボットには、仕事ができない。 あくまでも、決められた作業のみすることが求められているから。 僕たちは、ロボットと違う。感情があり、 承認欲求 がある。 よりよい、仕事をするためにも、その商品やサービスを欲している人の気持ちを

承認欲求は、誰もが持っている本能。

僕は、 承認欲求 が人より、強いのかもしれない。 これまで、僕には部下がいて、色々と相談されたり、支持をしたりしてきた。しかし、全く縁もゆかりもない今の職場で新入社員として仕事をしていると、これまでの 話す立場 から、 聞く立場 へと変化し、そのストレスからなのか(本人は自覚していないが!?)、急にこのブログを始めることを思いついた。 もちろん、そればかりではなく、『もっとこうしたらいいのに』や『不器用に生きているなぁ』など、今の職場での同僚に感じ、少しでも仕事を楽しんで欲しいという思いもある。(大体がその日に起きたことを発信している。) ただ、 承認欲求 は強弱はともかく、みんなが持っている本能的なことだと思う。 (ネットで詳しく調べながらではないので自己解釈だが) 『他人に認めて欲しい』 は、ごく当たり前で、赤ちゃんが何か上手くできた時、親に 『褒めて欲しい』 とおねだりするのも同じだし、SNSも誰かに認めて欲しいからこそだと思う。 承認欲求は悪いことではない。仕事で上手くいったら上司や同僚に褒めて欲しいし、見返り(給与)も欲しい。だからこそ、頑張れるんじゃないだろうか。 ただし、強すぎれば自己中心的になってしまうだろうし、弱いと人と一線を置いた冷めた人(他人に興味がない)になってしまう。 ほどほどがいいんだろうけど、ほどほどはどのラインなのだろうか。僕には、わからない。 ただ一つ、僕が思うのは周りを気遣うことができれば、周りも自分を気遣ってくれるはずだと。決して、周りと同調しろということではない。自己アピールも必要だけれど、周囲に目を配り、適切なタイミングで自己アピールし、自己アピールした分だけ、周りの人にも気を配る。 そんな感じでいいんじゃないかなと思う。 自分を認めて欲しいのは、周りにいる多くの人も同じだということを忘れなければ。 僕はこれからもブログを続けていきたいと思う。その中で、同意してくれる人がいたら嬉しい。 (やっぱり、みんなに認めて欲しいという願望は捨てられない。)

電話応対の心構え。

電話応対で、基本的な話し方や礼儀作法は別として、電話を コソコソと掛ける人 を時々見かけるが、僕は凄く気になってしまう。 特に営業経験が多かった僕にとって、会社内の電話よりも直接、携帯にお客様から電話が掛かってくることが多かった。 周りの営業マンも同様だが、電話が掛かってくると陰に隠れて話を進めている人を見かけると本当に仕事の電話なのかと疑問に思ってしまう。 プライベートな電話であれば、周りに気を使い話をしているのだろうと思うが、時々、目の前に現れ、電話の内容について相談されたりする。 今の職場でも見かけるが、なぜかコードレスの電話に持ち替え、奥の方へ消えて行ってしまう。 仮に、お客様が怒っているなど、 他人に聞かれたくない と思いで陰に隠れてしまうなら、何となく気持ちもわかるが、これがそうとも限らない。 恐らく、 話し方 や 礼儀作法 を気にしたり、「もし クレーム だったら」など余計なことを考えているんだと思う。 どちらにせよ、僕は堂々と周りに人がいようが気にせずに電話すべきだと思う。 その方が、もし話し方に失礼や礼儀作法としておかしなところがあった際に、周りにいる同僚に指摘してもらえるからだ。 他人に 話を聞かれるのが嫌 なのもわかるが、敢えて他人に話(話し方)を聞いてもらい、自分に間違いなどあった場合に指摘してもらえる環境で電話をした方が絶対に良い。 そうすると、早い段階で成長(大げさだが)していける。 自分だけでは、客観的になりづらく、間違いなどに気付きにくい。 恥ずかしいや他人に指摘されるのが嫌などのプライドはいらない。 嫌な思いはするかもしれないが、指摘されたら、すぐに改善することで、 恥ずかしい・嫌な思いは一瞬 でしかないのだから。 お客様からのクレームも同じ。他人に弱い所を見せたくない気持ちもわかるが、職場なら周りにいる同僚は仲間なのだから、応援してくれるはず。例え、応援してくれなくても、話を何となく聞いているだけで内容を理解してくれ、 自分一人で対応できなくなった場合にすぐにバトンタッチ (一からの詳細な説明を省き、簡潔に内容を伝えることができる。)できるから。 どちらにせよ、仕事の電話であれば、堂々と応対すべきだと思う。 僕は、電話での話を周りに聞かれても、何とも思わない。が、このブ

身だしなみに気を使って、損はない。

身だしなみは社会人として、立派なエチケットだと思う。 僕も最低限の身だしなみは気にしている。中でも、一番気を遣うのが靴だ。 個人的に靴が好きなこともあり、尚更だが、いつでもキレイに手の行き届いた靴を履くと心がいい気持ちになる。 僕の場合、新しい靴よりも、靴墨をキチンと塗った靴の方が好きだ。新品のやたらピカピカしているよりも落ち着きのある光沢に見えるからだ。 もちろん、他にもベルトやネクタイにも気を遣う。 何も高級な物や新しい物ではなくていいと思う。 ただ、 『身だしなみを気にする』 この気持ちを持っているだけでも、第三者に好印象を与えるんだと思う。 時々、決められたレールを走るのは嫌だから、自分の好きなようにしたいという人もいるが似合っていればいいと思う。ただ、そういう人に限って、テレビなどにでてくる誰かの真似だったりして、似合ってない人が多い。ヒドイ人は汚れていたり、しわくちゃな服を着て仕事をしている。(家じゃないんだから。) 本当に好きな服を着ている人は、身だしなみは必ず気にしているはず。 人により、好きな小物は違うと思う。自分が好きな小物には、ついつい目が行ってしまう。その時に、汚れていたり、ボロボロだったりすると、ガッカリしてしまうだろう。 多くの人に触れ合う 仕事では、多くの人の好みはわかりかねてしまう。趣味が合う人とだけ出会い、仕事が成り立つのであれば別だが、中々そうはいかない。 だから、最低限の身だしなみは気にするべきだと思う。 その方が、より多くの人に好印象を持ってもらえる。好印象を持ってもらうことは仕事をする上で、重要なポイントの一つでもある。 僕の場合、しっかりと磨かれた靴を履いている人を見ると、新しいや高級などは別にして、靴に気が利くなら、この人は気が利く人だろうと思い込んでしまう。 逆に、汚れたままの靴だったりすると、気が利かない(気づかない)人なんだろうと想像してしまう。 多くの人も特に自分が好きな小物を粗末にしている人を見ると、本来のその人を知る前に勝手に悪い印象を持ってしまうだろう。 スタートが悪ければ、取り戻すのは容易ではない。(テクニックとして、悪い印象から好印象を与えることでギャップの大きさで本来以上の印象を与えることもなくはないが、身だしなみは別だと思う。) なら、 スタ

お客様は神様?

お客様は神様と言われる方もいるが、僕はそうは思わない。 なぜなら、買う権利もあれば、売る権利もあるからだ。 少し、極端な意見なので反発もあるだろう。 もちろん、お客様を見下したり、馬鹿にしている訳ではない。 お客という立場を利用 するズルい人がいるからだ。 僕も、基本的には、お客様の意見を尊重するし、多少の無理難題も気にすることなく引き受ける。ただし、無理難題の度が過ぎたり、無理難題を当たり前のように注文を付けてくる客は、お客様ではないと思っている。 会社からのクレームは気にせず、取引をやめてもらっても良い。そんな客は、会社に大きな利益をもたらすことはないはずだから。 同じ無理難題でも、会社に利益をもたらしてくれるお客様は、譲歩もしてくれる。かたや、「無理難題が通らなければ、取引はしない。」など、上から目線の客は、後々、クレームやらいちゃもんやら、大きな損害にもなり得る。 賢い人や会社は、飴とムチを使い分けるけど、ムチしか使わない会社や人は、今の立場に勘違いしているだけの人でしかない。 そんな人や会社と長い付き合いができるわけがない。 だからこそ、お客様は神様ではないと思う。立場は違えど、同等の位置に立っている。下請けも同じ。大企業も下請けがなければ維持できないはず。ただ、親会社の言う通りすべての条件を飲むのではなく、こちらからも条件の提示をしていこう。 もちろん、条件を出す限りは、請け負う仕事を相手の想像以上の結果で示す。これができれば、立ち位置は下請け、親会社問わず、同じ位置で仕事ができるはず。 世の中には、無理難題を飲むしかない企業もあることはわかっているが、そこから脱出する道を探し、利益を確保しなければ、企業としての本来の存在価値が失われてしまうと思う。 僕は、お客様は神様ではないけれど、やっぱり、お客様は大事にすべきだと思い、尊重し行動するようにしている。

あなたのプライドは、どこにある?

高い、低いは別にして、プライドがない人はいないだろう。 ただし、仕事でのプライドとなると勘違いしている人が多い。周りより、仕事ができると思われたい。自分は周りとは違う。などなど。 本来、持つべきプライドを持たずに余計なプライドだけ、やたらと高い人を多く見かける。特に、中途半端に仕事をこなす人に多い。 僕は、仕事中は、なるべくプライドを持たないようにしている。プライドが邪魔をして、成長する切っ掛けを見失ってしまうからだ。 わからないことは、社歴が長かろうが短かろうが関係ない。ましてや、年齢の上下も関係なく、詳しい人に聞く方が早い。 今の時代は、ネットで簡単に調べることもできるが、ネット上には様々な情報が入り乱れている。 ネット上で、本当に知りたい情報を探し出すには、そのことについて、ある程度、下調べをし、更に追及していかないと正確に理解できない。急ぎすぎると、あたかも正確の用に見える、偽りの情報をつかみかねない。 プライドが高すぎると、周りに 『知らないと思われたくない』 そんなくだらない理由で中途半端な知識を得て、自己満足してしまう。そこに第三者がいないから、間違いに気づくのに遅れてしまう。 自分の本来の目的(家族を守る・出世したいetc)を達成するためのプライドではなく、目先のプライドに捉われてしまっている。 僕は、そんなくだらないプライドはいらないと思う。目的を達成するためなら、他人に馬鹿にされようが関係ない。マイペースで進んでいく。 仕事にプライドを持つ事は、決して悪くないが、高すぎるプライドは邪魔になるだけ。 プライドを持つなら、最低限でありながら、周りに何を言われても、決して折れないプライドにしよう。 周りから、僕のプライドは高いと言われる。でも、仕事に対してのプライドは決して高くない。(と、思う。)

「話し上手は、聞き上手。」は、本当だ。

これもよく言われます。 実際に、「はい。」「え~。」「そうですか。」などの相手を肯定する言葉をタイミングよく話すだけで会話が成り立つことがある。 ただ、ある程度のテクニックはいるので、練習が必要になると思う。 通り一辺倒の「はい。」だけでは、話相手は、本当にちゃんと聞いているのか疑問に感じて、不満・不安にさせる場合もある。 同じ肯定文でも真剣な話には、「はい。」くだけた話には「え~。」自慢話には「そうですか。」など、話の内容にあわせて、変化していかなければならない。 もちろん、うなずくなど、ある程度のアクションも必要だ。(オーバーアクションはなしで。) これだけでも、相手は気持ちよく話ができ、好印象を与えることができる。 更に、話相手が話した言葉をただ、オウム返しのように繰り返すと、より、好印象を与えることもできる。 自分に好印象を持ってもらったてから、初めて、こちらの本題を切り出す。 自分の要件を 『急がば回れ』 で、相手に好印象を与え、聞き入れやすい状況を作り出してから話し出すと、よりよい状況から話を初めることができるので、交渉しやすい。 ただし、相手の話に興味がないとタイミング、適した返答、アクションができないので、相手に興味を持たないといけない。 交渉は相手に心を開かせないと失敗する。相手の心を開くには、まず、自分が相手に心を開かないといけない。 例え、嫌いな相手でも自分が有利になるように話を進めるには、相手に興味を持つことが大事。 自分が心を開くと、実は 『食わず嫌い』 でいい人な時もあるかも知れない。やっぱり、嫌いであっても、相手の考え方がわかれば、弱点を探ることができるかも知れない。 まずは、話相手に興味を持とう。 僕も、「はい。」を多発している。が、こちらの心は開いているのに、一方通行のまま、相手の心を開けずにいる。相手の心のドアにカギがかかったまま、ビクともしない。 只今、心のドアを開けてくれる鍵屋さんを探している最中だ。

話し方のコツは、つかみが重要。

相手に話をちゃんと理解して貰うために、相手が話を聞く体制が取れているか確認する必要がある。 話を聞く体制じゃない時に、いくら話をしても聞き流されてお終いだ。頭では理解できてる人が多いとは思うけど、案外下手な人が多い。 よく、聞き入ってしまう話をする人がいるけど、相手が話を聞く体制にうまく導いているからだと思う。 体制と言っても、真正面・目を見てなどの体制ではなく、何を伝えたいのか明確にし、話を聞いた方がメリットがあると相手に認識させることが重要だ。 例えば、仕事であれば連絡事項をしっかりと聞かなければ、ミスに繋がったり、仕事を容易に進められないなどのデメリットがあることを最初に認識させれば、聞き入れる体制をしっかりと取ってもらえる。 つまり、 つかみが重要 だ。 もちろん、デメリットだけではなく、メリットがあることを伝える場合も同じだ。 よく、仕事では 「結論から話す」 と言われるが、これも つかみ の一つだ。 興味がある・メリット・デメリット が、主に相手の心をつかむ秘訣だけど、ただ一辺倒に話すのではなく、 強弱 や スピード も変化させつつ話すことができれば、自分の伝えたいことがしっかりと伝わるはず。 まだまだ、話し方のコツはあるけれど、疲れたのでここまでに。

人とAIの違いは何だろう?

人とAIの違いは何だろう? 将来、人の仕事をAIが奪ってしまう、というニュースを時々見かけるけど、本当にそうなるのだろうか。 僕は、コンピューターには詳しくないし、古い人間なので対面で気持ちが通じることに喜びを感じている。 もし、ロボットなどのAIが劇的に進歩した所で、投資する価値があるのか疑問に感じてします。 例えば、過去の事例など、膨大な量の記憶の中から、適切な結果を導き出す様な仕事は人よりも遥かに優れた結果を出し、その仕事はAIにかわってしまうとは思う。 しかし、人が優れているところは多々ある。例えばウソもその一つではないだろうか。 ウソには、良いウソ、悪いウソがある。例えば、何でもウソのない正直な意見だけでは、ギクシャクした関係しか作れない。相手のことを想いやりつくウソも結構ある。 そのさじ加減は、その人の個性として、その人を彩っている。 もし、AIにも個性があり、相手を想う気持ちを持つことができると、本当に仕事が奪われてしまうかもしれない。 コンピューターの基本は、YESかNOの繰り返しだと考えている僕にとって、曖昧な答えが必要とされることもある人間社会にどこまで対応できるか、想像がつかない。 僕程度でも疑問に感じるということは、すでに織り込みながら開発を進めているのだろうけど、同じ人に対応する場合にも、相手の機嫌や体調など、曖昧さの答えは無限にある。 もし、そこまでも解決する時代にも興味はある。ぜひ、実際に見てみたい。 僕が生きている間に、そんな時代がきても悪くない。もう少し、仕事はしたいので(生活できない)、僕が現役の間は、仕事を奪うのはやめて欲しい

無駄遣いは、悪いこと?

無駄遣いは決して、良いものではないと思う。 特にここ最近は、 『安く』 ・ 『長く』 使えるものが持て囃せれている。悪いことではないけれど、景気の低迷に繋がっているんじゃないかと思う。 バブル時代、日本の経済が急成長していた時、 使い捨ての商品 が多数あった。 バブル時代を懐かしんでいるわけではないが、多少の無駄遣いは必要なんじゃないだろうか。 物が売れれば、生産・販売に繋がっていく。しかし、物の寿命が延び、買い替えのサイクルが伸びているため、生産・販売が縮小している。 今、物の使い捨てが少なくなり、人材が使い捨てされているんじゃないかと思う。 派遣や契約社員という名目で、必要な時のみ利用され、必要性がなくなれば、すぐにバイバイされてしまう。 企業にとって本来、 宝 だったはずの人材が消耗品になり、利益のみが 宝 (重要)になってきている。 もちろん、物と一緒で消耗品は安いく便利に使えるに限る。経営者だけが大きな収入を得、社員の収入が下がるのもしょうがない。 こんな時代だからこそ、自分の存在意義を示さなければいけない。 同じ消耗品でもティッシュやボールペンのように、すぐに買い替えの効くものではなく、社用車やOA機器のように買い替えの際に少しは、検討される位にはなりたい。 現在、消耗品の僕も使い捨てされる立場だけど、ノート位にはなって、何度も読み返される存在になりたい。 最近は、データでの管理が主流で、ノート自体を見る機会が少なくなったけど・・・

確認のバランス。

仕事で大事なことに 『確認』 もある。 確認を怠るとミスにつながりやすい。思い込みで仕事をしてしまうと、そうなりやすい。 自意識が高い人に多く見受けられる。 また、過剰な確認も問題があると思う。いちいち何度も確認をしないと不安でしょうがなかったり、自分で決断することを怖がって確認がやたらと多くなる。こちらは自信がない人に多い。 僕も適度な確認はどの程度か何とも言えないけれど、多過ぎず、少な過ぎずにできる人が仕事ができる人と言われていると思う。 同じ仕事をしていても、社歴や立場によって、自分で判断しなければいけない場面が違ってくるので臨機応変に対応していくしかないが、自分で責任を追える範囲であると判断し、確認を省いて仕事を行ったとしても、 事後の報告 がしっかりとできれば大きなミスにつながることは無いと思う。 事後であろうと 報告 をしなければいけないと頭に入っている時点で責任を負う覚悟ができており、覚悟を持って仕事をしているとミスが少ない。 いつもと同じ仕事と思い込み 「うっかり確認しなかった」 や 「何度も同じことを確認している」 を直していけば 自分の仕事に自信がついてくる んじゃないだろうか。 僕もこんな偉そうなことを書いているけど、まだまだ未熟だし、文章も下手なので誰かおかしな文章や間違いがあったら教えて欲しい。「いいよ」「悪いよ」の確認が取れれば、良かったらさらに良く、悪ければ直すことができるので安心できるかな。 お願いします。

ずるい上司にこそ、報告は重要。

新入社員の多くが、会社では 『報・連・相』 が重要と教えられる。 ほとんどの人が聞いたことがある言葉だと思う。 なぜ、必要なのか? 仕事で 報告 は、ごく当たり前のこと。仕事の経過や過程、現状を報告することは、組織として責任の所在を明確にでき、上司は部下から受けた報告をもとに今後の判断をしていく。 連絡 ももちろん重要。例えば、体調が悪く休む場合など、連絡がなければ、同僚に心配をかけてしまう。主に上司部下関係なく行われるのが連絡になる。 自分で解決できることばかりではないからこそ、 相談 ももちろん重要。 その中で、報告が下手な人が非常に多い。 例えば、上司が忙しそうで報告を後回しにしてしまう。や、自分の判断で大丈夫と思い報告しない。などなど。 部下から報告をしやすい環境を作れない上司にも大きな問題があるが、そこは勇気を持って周りの状況を最低限の配慮をした上で強引に報告をするべきだと思う。 そこで、上司に気を使っても全く意味がない。時には、 「忙しいから後に。」 など、逆に怒られたりする場合もあるし、話を聞いてくれない場合もあると思う。しかし、そこでアクションを起こすことが重要で、アクションを起こした所から、責任は上司に移る。 人のせいにする訳ではないが、責任の所在は明確にしておかないと取り返しがつかなくなる場合もある。個人の場合、数万円などの損失も企業となれば一つの判断ミスが数千万、数億となる場合もある。 そんな責任を取れる個人はそうそういない。 だからこそ、 報告が重要 になってくる。 「上司に責任を押し付けろ。」 という訳ではないが、重要な理由はそこにある。 たまに、ずるい上司が 「部下のミスは部下。自分のミスも部下。」 という上司もいるし、自分の都合でしか話を聞かない上司もいる。しかし、そこで諦めずに報告は徹底しよう。ずるい上司なら尚更、上司に責任を押し付けてしまえ。 上司が聞く聞かない別にして、アクションをおこそう。 こんな話をすると、悪い報告ばかりに思われがちだが、結果を残した場合も同様だ。比較的良い報告はしやすいから問題は無いと思うが。 僕も報告だけはこまめに行うようにしている。責任は取りたくないから。

出世とは。

仕事をしていると、やたらと出世したい気持ちで仕事をしている人がいる。 大抵、本人は仕事が周りの人より、自分が長けていると思っている。 しかし、実際はどうだろう? 僕が見てきた人の中で、仕事ができると思っている人ほど、たいしたことは無い。 何故だろう。 経験から、自分自身の判断でしかないからだと思う。自分の価値観で仕事の優越を決め、自分の価値観でのみ仕事ができるできないの判断でしか、ないからじゃないだろうか。 所謂、自己満足だけだ。 でも、サラリーマンである以上、出世をして、給与も今以上に臨むことは決して悪いことではなく、むしろ全てのサラリーマンに臨んで欲しいと思っている。 出世を諦めたサラリーマンほど、仕事をダラダラして、帰社時間が今か今かと待ち望んでいるだけの無駄な時間を過ごしている。 (極端な意見だとは思うが、そんなに間違っていないと思う。) しかし、多くのサラリーマンは出世から縁遠いのも事実だ。 出世するには、2つの道がある。一つは、上司に媚びを打ってでも気に入られること。そして、もう一つは、下から押し上げて貰うこと。ただし、周りや下から持ち上げてもらうには、それ相応の行動を行わないと無理だと思う。それは、周りや下の人は出世を決める権限がないからだ。周りや下の人に認められ、上司からも認められることは人一倍の努力では足りない。 しかし、周りや下の人から押し上げられ出世をした人は強い。上司からだけ認められた人とは雲泥の差がある。 それは、覚悟あるから。 「慕われた人を守ろう。」「力になろう。」 と。 媚びを売る人は覚悟がない。自分だけが良い思いをすればいいのと思っている人間に覚悟できるはずはない。 この違いは誰の目から見ても明らかにわかる。 出世に近道はない。周りを気遣い、時には叱り、会社、部署全体の底上げを図り、現在の位置よりも上に上げることを考えながら行動して行くしかない。 時には上司の身内だけで上に立つ人も現れ、そこにやきもちや僻みを入れずにやるしかない。 それができれば、気づいた時には、それなりのポジションにいるはず。 僕も現在は上しかいない最下層のサラリーマンだ。 年齢も考えるといつまでも、このままで良いとは思っていない。ただ、今が楽なポジションでもあり、その内何とかなるかなと思いながら日々

本当の男女平等って何だろう?

本当の男女平等って何だろう? 僕個人の考えで、反対意見も多々あるとは思うが、今の日本や欧米の男女平等は無理があるんじゃないかと思う。 もちろん、女性が社会進出することや女性だから【お茶くみ、掃除が仕事】というのは、疑問符がつくが、【何でも同じじゃなければいけない。】ということも疑問符がつく。 女性は、女性ならではの目線や気配りがあり、男性は男性ならではの目線や気配りがある。 それは、仕事であっても、家庭であっても同じことだと思う。 男であることも女であることも個性の一つに過ぎないんじゃないかと思う。ただ、一部に過度に反応する人がいるおかげで、 『女性だから雑用をすればいい。』 や、逆に 『女性だから出世しない。』 など馬鹿げた論争をしている。 その内 『男女平等』 の言葉さえ、 「男が先に来ているから、女性軽視だ。」 などのくだらない議論まで始まりかねない。 みんなが、一人歩きを始めた 『男女平等』 に縛られ、疲れ果てて、ギクシャクしている。 どう頑張っても、男性であること、女性であることは変わらない。そこから、目を逸らさずにお互いに認め合い、得手不得手をカバーし合える関係になれば良いだけだと思う。 現在の男女平等は男性・女性から目を逸らし、人として、大きな括りで見なければいけないと強制しており、僕は、そこに無理があると思う。 だって、男と女は絶対的に違いがあるから。 (絶対的な違いとして、子供を産むことができる・できない。など) ※子供を産む産まないの選択は別として 先ずは、男性と女性の違い、得手不得手を認め、男だけでも女だけでも人類が成り立たないことを認め、尊重し合い 『男女平等』 の言葉が、いい意味で無くなった時こそ、本当の男女平等何じゃじゃいかなと思う。 僕も家庭では、仕事に行く前の通り道だからゴミ捨てはするし、掃除は得意なので任されている。特に僕が煎れるお茶は絶品らしく、褒められるのが嬉しくて、お茶とコーヒーを煎れるのだけは譲る気はない。

「夢」や「目標」を持とう。

仕事に対して、 『夢』 や 『目標』 を持って仕事を行っている人は、 『夢』 や 『目標』 を持っていない人より、動き方が全然違うと思う。 もちろん、プライベートなことでも良いと思う。 『夢』 や 『目標』 を持っているということは、ゴールが見えていることと同じで、いつゴールするかわからずに闇雲に走っても疲れるだけだけど、ゴールが見えていれば疲れも半減するし、迷わずに突き進むことができる。 大きな夢や目標だけでなく、今日1日、今月、今年と細分化していけば、辿り着くまで遠すぎて諦めてしまうこともなく、徐々にレベルアップしながら、確実に大きな夢や目標に向かって進んでいける。 ただし、ゴールが見えていても、今の自分の位置をしっかりと把握しておかないと道を間違えたりしたことに気付かずに闇雲に突き進んで、後で戻らなければ行けなくなってしまう。 時々、自分を第三者の目で見て、今現在どの位置にいるのか主観的ではなく客観的に判断できるようになると仕事も楽しくなり、やりがいも生まれてくるんじゃないだろうか。 山登りをイメージするとわかりやすいと思う。初心者が上級者向けの山に登ることは無謀なことだし、自分の位置を正確に知っておかないと遭難してしまう。 どうせやらなきゃいけない仕事なら、イヤイヤやるより、楽しんでやれた方が良いに決まっている。 楽しんでお金が貰えたら、これほどいいことは無い。 楽しんで仕事をしている人は、大なり小なり 『夢』 や 『目標』 を持っているはず。 僕の今一番小さな夢は、 「早く、ビールが飲みたい。」 必ず叶えるぞ。

怒られたくない!

怒られるのが好きという方は、よほど変わった人じゃない限りいないだろう。 僕も怒られるのは好きじゃない。 ただ、怒られたくないが強くなりすぎると仕事の仕方が変わってくる。 ミスを恐れて、得意なことや無難なことばかりを優先してしまい、本来、優先的にしなければいけない重要な仕事を後回しにしてしまい、結局最後に怒られてしまう。 怒られるのを恐れるばかりに、更に怒られてしまう悪循環に陥ってします。 もちろん、新しいことや複雑な仕事にチャレンジする余裕はないので成長もできない。 そこに気付くことができない上司にも問題があるが、子供が親を選べない(子供は親を選んで産まれてくるとの話もあるが)よいうに、普通の会社員は上司を選ぶことができない。 上司を変えようと思ったら、並大抵のことじゃない。後は、逃げ出す(会社を辞める)だけしか残っていないんだろうか。 僕は、そんなことは無いと思う。 怒られるのを恐れなければいいだけ。怒られるのはしょうがない。自分のミスを認め、怒られたことに感謝しよう。 怒られることを恐れている人の口癖は 『すみません。』 が、非常に多い。 その口癖をやめ、 『ありがとうございます。』 に変えていこう。 怒るのが好きな人は、 『すみません。』 の言葉で、更にエンジンが掛かってしまうけど、 『ありがとうございます。』 などの言葉には非常に弱いはず。 感謝されると大体「分かったなら良いよ。」となるはず。 何事も小さな一歩から進んでいくように、言葉一つで仕事に対する気の持ちようが変わってくるはず。 もし、あなたに心当たりがあるなら、ぜひ試してみてください。 偉そうにすみません。

仕事の『できる人』と『できない人』

仕事ができる人 と できない人 の違いは何だろう? 周りの人を眺めていると一番、目が行くのが周囲を見渡すことができるかどうかで、大きな差が生まれているような。 今、サッカーの日本代表戦を見ながらふと思いついた。 司令塔としてチームを勝利に導くためには、仲間の選手はもちろん、敵チームの選手の動きを把握し、予測してゲームを組み立てている。 経験があるからこそ、周囲を見渡す余裕もできてくるし、ゲームの流れも予測でき、それを流れが良ければ、更に良く。流れが悪ければ、それを打開するアイデアが生まれてくる。 仕事もサッカーと同様に周囲の仲間の動きや結果を見ながら、その都度、自分の仕事を微妙に変化させ、対応できている人は、周りから見ても 『仕事のできる人』 と呼ばれていることが多く、周囲を気にせず、いつもと同じ仕事を淡々と繰り替えしている人は『仕事ができる』とは、呼ばれていない。 職種にもよるとは思うけれど、僕の周りを見る限りはそのようだ。 他にも仕事のできる人の要素は多々あるとは思うけれど、サッカーを見ていたから、余計にそう思うのかもしれない。 普段と大きな違いではなく、微妙な強弱が非常にうまい。 一辺倒のパスやシュートではなく、強弱があるからこそ、得点につながることと同じように。 先ほどの述べた、いつも淡々と同じ仕事を繰り返す人の場合は、「あの人の仕事は正確だ」「あの人に任せておけば大丈夫」などと褒められることも多いけれど、仕事ができると呼ばれることが少ないと思う。仕事ができると呼ばれても『この』とか『あの』など、限定されることが多い。 僕は、仕事ができると呼ばれたく、周囲を見渡しているけれど、周りからは 「いい歳して落ち着きがない。」 と呼ばれてばかり。 周りを気にしすぎて、自分の手元を見ることを忘れ、うっかりミスが多いからかな。

権利と義務のバランス。

仕事をしていると、やたらと自分の権利を主張してくる人がいる。 「有休が残っているから休みを取る権利がある。」 「就業時間なので帰ります。」などなど。 もちろん、有休は会社から認められている権利だし、就業時間も決まっている。 権利を主張するのは当たり前のことかもしれない。 ただ、やたらと権利を主張する人に限り、会社に対しての義務を果たしているのか、疑問符がつく場合が多い。 僕は、義務を果たすからこそ、権利を主張することが出来ると思っている。 義務を果たさず、権利だけを主張しているのは 『詐欺』 だと思う。 古い考えと笑われるかもしれないし、社畜と言われるかもしれない。 しかし、僕の周りでも仕事のできる人は決して自分の権利を主張することは無い。 当たり前に、有休を取り、時間内に仕事が終われば普通に帰社もする。 権利を主張する人は、自分が義務を果たしていないことをわかっており、権利を得るための最短ルートが主張して押し通すことだと考えているんじゃないだろうか。 会社は、慈善事業じゃない。『利益の追求』それが全てだ。 そして、会社員の義務は与えられた仕事をこなす。だからこそ、給与であり、有休などの権利を得ることができる。 与えられた仕事以上こなすことが出来れば、昇進もできるし、給与も増えるだろう。 まして、有休なども手続きさえすれば、誰にも咎められなく、当たり前に得ることができるだろう。 僕は只の社畜だから、権利は主張していないが、有休も中々消化できていない。 そんな社畜でも、権利を主張することなく、得ている人に憧れながら、いつか、そうなりたいと憧れるはあったりする。 今日は朝早く起こされ、暑さでバテたから、「明日は休みたいなぁ」。

お金ってなんで欲しいの?

「世の中、お金が全てじゃない。」 良く自分も言う言葉だけど、 本当にそうなのかな? 確かにお金で買えないものは沢山あるし、今までも手に入れてきたつもり。 でも、使い切れないお金を持ったことが今まで一度もない自分にとって、本当に口に出して良い言葉なのだろうか? 「◯◯じゃない。」って言葉を発する時、だいたい自分に引け目があるときのような気がする。 本当はお金が欲しいのに僻んでいるだけかも。 そう考えると、 「世の中、お金が全てじゃない。」 って、お金持ちが言う時も何かが満たされていない時なのかもしれない。 お金が全てを満たしてくれるものじゃない。僕にも家族がいるし、大事な友達もいる。 お金はもうちょっと(もちょっと増えたら、更にもうちょっと)欲しいなとは思うけど、 「世の中、お金が全てじゃない。」 ほどほどに頑張ろう。

社畜って!

社畜と呼ばれると、何で嫌な気分になるんだろう? 家畜と同様に扱われるのが嫌だからなのかな。 家畜は家畜で、楽だと思うけど。 決められたことをこなすだけで餌(給料)が貰えるなら、これほど楽なことは無いはずだけど。 みんな、どこかで野生(起業?)に憧れているんだろうか? 野生は野生で大変なことは山ほどある。 自分で餌を見つけなければ生きてはいけないし、自分を守ってくれる人もいない。 そんな大変なことに 本当に憧れているの? 社畜でもいいんじゃない。ただ生きていくだけなら。 大抵、「社畜になりたくない」「社畜はイヤ」と叫んでいるのは社畜にもなれない、まして野生に出る勇気もない人が言い訳として使っているだけで、そんな今の自分を正当化したいだけだけど。 社畜でもいいんじゃない。餌(給料)が貰えるなら。 餌が足りないなら、ブランド牛みたいに周りの人より、上を行けば良いだけだし。 そんな自分もブランド牛に憧れる只の牛だけど。餌は沢山欲しいから、ブランド牛になれなくても人一倍太った牛になって、餌だけは沢山貰ってやる。 でも、仕事で太るって何だろう? 悩みが一つ増えただけかも。